ルカによる福音書21章25~38節

 「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。…これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。」 
ルカ21章27、36節 (p.127)

序 論)
  エルサレムの神殿で、人々や弟子たちの前で、 この宮がやがて破壊される日が来ること、そしてエルサレムも陥落することを予告されました。さらに予告され、 弟子たちに語れたことは…

本 論) 1.主の再臨の予告
  イエス様はご自身を「人の子」と呼ばれました(27)
  「人の子」は旧約聖書のダニエル書の中では、ダニエルが幻の中で見た永遠の主権者、最終的審判者を意味する言葉として用いられています。(ダニエル書7章13節 p.1234)
  イエス様は、このダニエルの見た「人の子」の姿を再臨されるご自身の御姿とし、もう一度、この地上に来られるご自身のことを「人の子」と呼ばれたのです。
 そして「雲」(27)は聖書において、神様の御臨在を示すしるしです。つまりそれは「大いなる力と栄光とをもって」(27)という言葉と結びついて、主イエスが神の御子としての力と栄光を帯びてもう一度来られることが告げられています。力と栄光をもって、ということは、この世の全てを支配し、また審かれる方として、という意味です。 しかも、「人々は見るであろう」(27)と言われます。それは、すでに17章24節で語られていました。 「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。」 (ルカ17章24節 p.119)
  稲妻が天の端から…天の端へ…、というのは「突然」、というここと、「全ての人に明らかな形で」という両方の意味です。イエス様の再臨は、すべての人に明らかな形で  だれでもそれが分かるように起こるのです。
  「あなたがたの救(すくい)が近づいている」(28)の救いは、「身代金による釈放」を意味する言葉が使われています。この箇所は「解放のときが近いからだ」(新共同訳)、「贖(あがな)いが近づいたのだ」(新改訳)とも訳されています。(ローマ人への手紙8章23節p.243 の「からだのあがな われること」の「あがない」も同じ言葉が使われている。この箇所も主イエスの再臨の日の私たちの完全な救いを示している)
  終末の日(主の再臨の日)が、恐ろしい審きの日ではなく、私たちの救い(解放、釈放)の日であるのはイエス様が私たちの救い主だからです。イエス様は、罪に支配され、その奴隷になっている私たちを救うために約2000年前にこの世に来て下さいました。そして、私たちの罪のすべてをご自分の身に背負われ、十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスがもう一度来て下さるのは、悪を審き、私たちの救い(あがない)を完全に成して下さるためです。それは、私たちが罪から完全に解放されるときでもあります。

2. 終わりの日に対する心備え
 さらにイエス様は、時のしるしを、いちじくの(若葉)にたとえて語られます(29-31)。  そして、ご自分の再臨の時まではこの時代は滅びない、この世が終わることはないと言われます。(32) たとえ人間の営みや自然を含めた世界全体が終わることがあっても、「わたしの言葉は決して滅びることがない。」と言われます(33)。ですから私たちはイエス様の再臨に希望を置いて、たとえ苦しみの中でも、身を起こし頭を上げ(28)、忍耐して信仰の戦いを戦い抜くことができます。それは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33 新共同訳)と言われる主ご自身と主のみ言葉に支えられているからです。
 次に「心が鈍くならないように」と警告されます(34)。 「放縦、泥酔、世の煩い」(34)のように私たちの心を鈍らせるものに振り回されたり埋没することなく、神様のみ言葉を聞き、ただ主イエスに信頼を置いて歩みましょう。

結 論)
  最後に滅びから逃れて「人の子の前に立つことが できるように…」(36)と言われます。私たちを救い、罪の 赦しを与えて下さったイエス様の前に立たせていただく者 となることが私たちの願いです。
 私たちは、イエス様によって罪赦された者として、救いの恵みを感謝し、主により頼んで歩み続けます。
私たちはイエス様の励ましの言葉を忘れず、この世の煩いに心鈍らせることなく、再臨の日を待ち望み、「目を覚まして」(36)(「油断せずに」新改訳)祈る毎日を過ごしましょう。