感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、 あなたはわたしをあがめるであろう。
詩篇50篇14-15節(p.791)
序 論)
神殿音楽隊のかしらであったアサフは、この詩篇を を通して、イスラエルの人々に、単なる形式ではなく、神様に対して、感謝に満ちた礼拝をするように忠告しています。この詩篇とマタイ福音書の最後の箇所を通して示されることは…
本 論) 1.神様は祈りを聞かれる方
詩人は暗闇の中に、これからとても大切なことを語るため、神が光を放たれると語ります(2)。
イスラエルでは、礼拝の中で「燔祭」(「全焼のいけにえ」新改訳) (8)がささげられていました。この燔祭は本来、いけにえの中でも自発的な最高のささげものでした。しかし、民の心から大切なものが失われていました。それは感謝と賛美の心です。神様は民が犠牲をささげないことを責めておられるのではなく、ささげる心を問題にしておられるのです。神様への礼拝も、奉仕も、賛美も、すべて感謝のわざであり「感謝のいけにえ」です。神様は、私たちの心からの感謝を喜ばれます。
また、神様は私たちの「祈りを聞かれる方」です。 (詩篇65篇2節 p.801) 神様は、私たちが神様に呼び求めること、信頼の祈りを待っておられます。(15)
16節から22節には、神様の戒めに従わない悪しき者、「神を忘れる者」(22)への神のさばきが語られています。 私たちもかつては神様を知らず、神様から遠く離れていた者、神と隣人を愛せない者でした。でも、神様は、そのような私たちにイエス・キリストを与えて下さり、神様がどのようなお方であるかを教え、示して下さいました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネによる福音書14章6節 新改訳2017)
父なる神様と私たちの間の交わりを妨げていた私たちの罪は、イエス様の十字架の贖いによって取り除かれ赦されました。そのことを信じ、イエス様を心に受け入れた私たちは、主イエスを通して神様に近づくことができるし、主イエスの御名によって、神様に何でも祈り求めることができるのです。
罪赦された感謝と賛美の心をもって、主の御前に出、神様を礼拝し、祈りをささげましょう。
2. 主イエスを礼拝する
次に新約聖書の福音書の中のイエス様の弟子たちの礼拝の姿を見てみましょう。マタイ福音書の最後の箇所は、復活されたイエス様が、弟子たちに近づかれ、語られたことが記されています。
弟子たちは、ガリラヤのある山で復活されたイエス様と お出会いし、ひれ伏して礼拝しました。(マタイ28章16- 17節 p.50)
弟子たちの中には、「疑う者も」いましたが(17)、イエス様の方から彼らに近づいてこられました。そして、御声をかけられます。(18-20)
私たちも時に、いろいろなことで心が揺さぶられ、疑いを起こしやすい者です。でも、イエス様の方から近づかれ礼拝する私たちに聖書を通してみ言葉を語り掛けて下さり、疑いの心から解放し、信仰を強めて下さいます。
イエス様の復活は、神様が死の力に打ち勝たれた証しです。今や主イエスが天と地の一切の権威を持っておられます。そして、聖霊の力によって、私たちといつも共にいて下さいます。
イエス様の弟子として歩むとは、この共にいて下さる主イエスの恵みと力に支えられ、生かされて歩むことです。
私たちも、このときの弟子たちと同じように、イエス様によって、この礼拝から派遣されていきます。私たちが身近な所で出会い、関わりを持つ人たち、共に生活している 一人ひとりの人、それが「すべての国民」の一人です。私たちはその人たちと良き関係を築き、福音を証しし、イエス様のことを伝えていきましょう。
結 論)
詩篇50篇の最後の節(23節)も真の礼拝とは何かを 告げています。それは、感謝のいけにえをささげ、自分の 歩む道を正しくすることです。神様の恵みに心から、感謝 して、応答することです。
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」 (エレミヤ書33章3節 p.1120)
この神様の呼びかけに応答し、神様のご愛と主イエスの恵みを更に尋ね求めてまいりましょう。キリストを通して父なる神様を礼拝しつつ、日々の歩みを成してまいりましょう。