コリント人への第一の手紙1章50~58節

 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。     
Ⅰコリント15章57-58節 (p.276)

序 論)
   「十字架の言葉」で始まったこの手紙の最後の部分でパウロは復活について語ります。そして、この章の最後の部分(50-58節)では、「世の終わりの復活」を語り、その「復活の日」が「勝利の日」であることを語ります。

本 論) 1.死に対する勝利
  私たちの今のこの体、この世の人生は、朽ちるべきもの、死ぬべきものです(50)。しかし、イエス様を信じ、従う者は永遠の命に生かされ、終末(再臨の日、世の終わりの時) に栄光の体に変えられます(51)。すなわち、地上の歩みを終えて御国に移された者は復活の体(栄光の体)が与えられ、地上にいる聖徒は、生きたまま栄光の体に変えられます(52)。私たちはこの地上における限られた人生が、私たちの歩みのすべてではないこと、神様の恵みによって、生かされる新しい、朽ちることのない命と体が与えられることを、聖書の言葉によって示されます(53)。
  神様はご計画の中で、私たちが神の国に生きる朽ちない体を「着る」ように定めておられます。復活の希望に生きる者は、死の向こうに、新しい、朽ちることのない神の国の恵みを受け継ぐ恵みが与えられていることを信じ、望みを持って地上の人生を歩むことができるのです。  

2. 復活の恵みを賛美する
  死に対する神様の恵みの勝利をパウロは旧約聖書のイザヤ書25章8節(p.974)の言葉の実現として語ります(54)。
死に対する勝利が、世の終わりの私たちの復活のときに実  現するのです。
  「死のとげは罪である」(36)と語られているように、死  は一人の人(アダム)の罪をきっかけとして、すべての人に及び、私たちに苦しみを与えるとげでした。死がとげであるのは、私たちの罪のためでした。 (ローマ人への手紙5章12節 p.239 参照)
  主イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って十字  架にかかって死なれました。主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。そして、神様はイエス様を復活させられました。主の十字架を信じることによって罪の赦しを与えられた私たちは、主の復活によって永遠の命の確証を与えられているのです。
  イエス・キリストの十字架によって、死の根本的なとげは既に抜き去られています。主イエスを信じる者にとっても地上の人生の終わりである死は、苦しみ、恐れ、不安を もたらすものです。死のとげはなお残っています。しかし、終わりの日、復活のときにそれは完全に取り除かれます。
 私たちの復活は、イエス・キリストによって既に実現している死のとげの無力化、「死は勝利にのまれてしまった」  (55)という神様の恵みの勝利の完成のときです。
  パウロは、この終わりの日の勝利を先取りして、感謝し、主を賛美しています。   

結 論)
  パウロは、最後に「…堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。…」(58)と励まします。主の復活と私たちの復活の希望があるから、私たちの労苦が無駄になることはないのです。
 「主にあっては」、すなわち主イエスに結ばれ、主の栄光のためになすわざは、決して無駄になることはありません(58)。キリストを信じる者たちの集まり、キリストのからだである教会の大きな目的は、礼拝、交わり、キリストに似る者へと成長すること、周りの人たちへの奉仕、宣教だと言われます。この新しい年、私たち一人ひとりが、祈りつつ、教会の働きに関わり、主のわざに励んでまいりましょう。
 神様を信じ、礼拝し、それぞれが神様の恵みに応え、自分の置かれた場で、堅く立って主と教会に仕え、神様が喜ばれる働きを全力で成させていただきましょう。