ルカによる福音書1章39~56節

するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち世々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、…」        ルカ1章46-48節 (p.83) 

序 論) 御使いガブリエルのお告げを受けたマリヤは、ガリラヤから、直ちに、「ユダの町」(39)にいるエリサベツに会いに行きました(40)。エリサベツとのやりとりと後に主にささげた賛歌を通して示されることは… 

本 論)1.主をあがめ、喜ぶ
マリヤが祭司ザカリヤの家に入り、妻エリサベツに挨拶をしたとき、エリサベツの胎内の子がおどりました(41)。そして彼女は聖霊に満たされて語り始めました。まず、マリヤへの祝福の言葉を告げます(42)。エリサベツはマリヤの胎内の子(イエス様)は「主」(43)(原文では「わたしの主」)であると知っていました。そのことを示したのは、聖霊と彼女の胎内の子ヨハネ(後の洗礼者ヨハネ)でした(44)。このようにエリサベツは、マリヤの胎内に宿っている子の故に年若い村娘のマリヤに対して敬意を示しました。そして、マリヤに「…、なんとさいわいなことでしょう」と言います(45)。マリヤは「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた」のです。
エリサベツの言葉を受けて、マリヤは主を賛美しました (46~55)。歌い出しの「主をあがめ」(46)「あがめ」がラテン語では「マグニフィカート」で、賛歌はこの言葉から始まります。ですからこの「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。その意味は「大きくする」です。「主を大きくする」それが「主をあがめる」の元の意味です。神様をあがめるためには、自分の小ささを認めてへりくだることが必要です。マリヤ自身がそうしていることが48節の言葉に現れています。ここでマリヤは自分のことを「この卑しい女」(「身分の低い主のはしため」(新共同訳))と呼んでいます。それは社会的地位ではなく神様との関係において卑しい僕である自分ということです。このように主を大きくする、ほめたたえることは、自分自身を神様の御前に僕として低くすることです。
続いてマリヤは「わたしの霊は救い主なる神をたたえます。」(47)と賛美します。この「たたえる」は原語では「喜ぶ」という意味があります。この小さい者でしかない自分に神様が目を留めて下さり、その力によって偉大なことをしてくださり、みわざのために用いて下さる、マリヤはその幸いを味わったからこそ、このように歌いました。

2. 私たちも「さいわいなもの」とされる
マリヤの賛歌の言葉(46-55)は、旧約聖書のサムエル記上2章のハンナの祈りの言葉と似ている箇所があります。(サムエル記上2章1,8節 p.382) また申命記や詩篇の言葉と重なる言葉があります。(申命記10章21節 p.262、詩篇103篇17節 p.838 等)マリヤの喜びが、聖書の言葉と共に賛美となってほとばしり出てきたのです。このことからもわかるようにマリヤは幼い時から、旧約聖書の言葉に親しみ、心に留め、祈り、主を賛美していたのです。小さな者を用いて下さる神様のあわれみは、世々限りなく、主を畏れる者、神様を信じ、従う人々に及んでいきます。(50)
   「心の思いのおごり高ぶる者」(51)は、当時のヘロデ王や政治的指導者、宗教指導者たちの姿、言動に表われているように、自分の実績を誇り、神様の前に自分はひとかどの者、大きな者だと思う人たちです。
私たちもかつては、神様を知らず、心おごる者、罪の中に生きていた者でしたが、聖書を通して、イエス様を知り、神様のご愛に触れ、自分の罪を示されました。神様が私たちに対してみ腕をもって力を振るわれ(51)、聖霊によって、罪を悔い改め、イエス様を信じる者とされたのです。自分を大きくする者から、神様を大きくする者へと変えられました。神様は今、私たちをも主のみわざのために用いて下さっています。
マリヤだけでなく、主イエス様を信じ従い、主と共に生きる信仰者たちも「幸いな者」です。私たち一人ひとりも「マグニフィカート」を共に賛美しつつ生きる者です。

(参考)
新聖歌67 「わが心は」 Mary’s song  (マリヤの賛歌)
新聖歌72 「わが心主をほめ」 My soul doth magnify the Lord (わたしの魂は主をあがめます)

結 論)マリヤとエリサベツは、主の恵みを共に分かち合いました。マリヤのおなかの中に、イエス様がおられたのですから、マリヤたちは救い主と常に一緒でした。
今は、聖霊によって私たちの間に、そして私たちの内にイエス様がいて下さいます。その恵みに感謝して主を賛美し、クリスマスを待ち望みましょう。