ルカによる福音書20章27~40節

「…死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである。」
  ルカ20章37-38節 (p.125) 

序 論) サドカイ人は、ユダヤ教諸派の中では、少数派でしたが、貴族階級に属し、彼らから大祭司が選ばれていました。彼らが、イエス様のもとに来て質問します。それに対してイエス様が答えられ、示されたことは… 

本 論)1.復活にあずかる者
サドカイ人は、旧約聖書の中でモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを権威ある神の言葉として受け入れていました。そして、死者の復活には否定的でした。(27)   彼らは申命記25章5-10節(p.281)をもとにイエス様に質問します。それは、女性が結婚し、子供のいないまま、夫が先立った場合、その夫の兄弟、あるいは近親者がその女性を妻にするという律法でした。(28)   サドカイ人は、イエス様に、「…では、そのようにして6人の弟が次々に彼女を妻にしたとします。死者の復活があるとするなら、復活の時、『この女はだれの妻になるのですか』…」と問いました(29-33)。彼らの意図は、周りの人たちに復活をばかげたものと思わせ、イエス様の権威を貶めることでした。  イエス様はこの問いに対して、復活においては、めとることも、嫁ぐこともない、とお答えになりました。(35)そして、復活後には、「天使に等しいもの」であり、 「復活にあずかるがゆえに、神の子」となると主イエスは言われます(36)。天使のように神に仕え、神を賛美し、愛に生きることができる神の子として、私たちは復活するのです。そして「めとる、嫁ぐ」に示される、この世の人間関係をはるかに超えた、自由な深い交わりの中に入れられます。
復活とは「もう死ぬことはあり得ない」(36)者とされることですが、ここで言われる復活をなさったのは、十字架にかかり、よみがえられたイエス様ただお一人です。復活して来るべき世を生きる者とされるとは、私たちもやがて来る世の終わりのときに復活の体(栄光の体)を与えられ、もはや死ぬことのない、永遠の命に生かされることです。

2. 人はみな神に生きる者
サドカイ人に対する答えは、続きます。(37) 「柴の篇」は出エジプト記3章の初め、ホレブの山の中にいたモーセが燃えているのに燃え尽きることのない柴を見ることを通して主なる神様と出会う箇所です。神様はモーセに「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と語られました。(出エジプト記3章 6節 p.76) ここで、神と彼らとの関係は「であった」(過去形)ではなく、「である」(現在形)と語られています。
   モーセにとって、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは数百年前以上に地上の人生を終えた遠い昔の人々です。ではなぜ神様はこのように言われたのでしょう。
イエス様は、続いて「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(38)と言われました。神様を信じ、神様と共に地上の人生を歩んだアブラハム、イサク、ヤコブはモーセの時代も、今も、天において神と共に「生きている者」なのです。新改訳聖書では、「…神に対しては、みなが生きているからです。」と訳されています(38)。生まれつきの私たちは、神様との関係において、神様の方を向いて生きてはいません。神様の方を向かず、心が離れていることを、聖書は「罪」と言っています。生まれつきの私たちは、罪の方を向き、罪に支配されています。つまり神に対してではなく、罪に対して生きているのです。罪とは、神様をも隣人をも愛することができず、むしろ憎み傷つけてしまうことです。そのような私たちを、罪から救い、
神に対して生きる者とするため、神様は独り子イエス様を地上に送って下さいました。そして、十字架にかかられました。
「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」 (ローマ人への手紙6章10-11節 p.240)
   イエス・キリストの十字架の死は、罪に対しての死でした。全く罪のないお方、イエス様が罪に対して生きていた私たちの身代わりとなって死なれたのです。そしてキリストは復活によって神に対して生きる者となって下さいました。それは、私たちを罪から解放し、神に対して生きる者とするためでした。 

結 論)イエス様を神の御子、救い主と信じ、従う私たちは今、このときすでに神様との交わりの中に生かされている者です。地上の人生を終え、天の御国に移されるときも私たちは永遠の命に生かされているのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われる神様、イエス・キリストの父なる神様が、今は、私たち一人ひとりの名を呼んで、「わたしはあなたの神である」と言われます。これからも神を信じ、イエス・キリストに結ばれ、神様とのより深い交わりの中に生かされ続けていきましょう。