ルカによる福音書20章19~26節

イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」           ルカ20章23-25節 (p.125) 

序 論) 「律法学者たちや祭司長たちは」(19)、イエス様を陥れるために、「義人を装うまわし者ども」(20)をイエス様のもとに送りました。彼らが選んだ罠(わな)は、ローマへの納税問題でした。彼らの質問に対してイエス様が語られ、伝えようとされたことは… 

本 論)1.すべては神のもの
彼らはイエス様に「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。 」と言い、イエス様にこびました。(21)   そして、ローマへの納税について尋ねます。「ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。」 (22) 当時のユダヤは、ローマに税を納めるべきかどうかを巡ってユダヤの国論は分裂していました。ユダヤの人々の中には、占領者ローマへの納税を屈辱的なことだととらえる人たちもいました。 もし、イエス様が「納めるべきだ」と言えば、ローマの支配に屈したと思われ、人々の心はイエス様から離れていきます。逆に「納めるべきでない」と答えれば、ローマ皇帝に対する反逆者とみなされ訴えられます。彼らは、口では敬っていながら、イエス様の答えの言葉じりを捕え、イエス様を追い詰めようと罠をしかけたのです。(20) イエス様は、彼らの悪巧みを見破って言われます。「デナリを見せなさい。…」(24) 「デナリ銀貨」1枚は、当時、人頭税として要求されていた額でした。そこには、皇帝テベリオ(ティベリウス)(BC42-AD37)の肖像と記号(「銘」新改訳 新共同訳)が刻まれていました。銘の言葉は、「神にして高貴なる者の子、ティベリウス・カエサル」でした。神殿でその銀貨とささげる銅貨を交換していました。イエス様がデナリを示されたのは、宗教指導者たちの生活態度と結び付けて、彼らの偽善を指摘するためでした。彼らの日常は神の教えから遠く離れ、利益の追求に夢中でした。普段はローマ皇帝の像が刻まれた貨幣でも気にせず使っているのに、イエス様に対するときだけ、納税問題を持ち出してきたのです。そこでイエス様は「カイザル(皇帝)のものはカイザルに(返しなさい)」(25)と言われます。ユダヤ人は、現実にローマによる平和、経済、交通等、ローマ帝国の恩恵を受けていました。とすれば、その通貨で社会的な責任(納税の義務)を果たすことは妥当なことでした。
また彼らに対する皮肉も込められています。日常はローマ皇帝の像などお構いなく生活しているのに、税を払うときになると信仰を持ち出し、敬虔なふりをするのか。もともとは皇帝のものなのだから、気にせず支払えば(返せば)よいではないか、と。
しかし、イエス様のお答えはそれだけでは終わりませんでした。「神のものは神に返しなさい。」と言われます。カイザルか神か、と並べて比較できるものではありません。自分の持っているもの、与えられているもののすべてが、実は神様のもの、神様の恵みによって預けられているものです。
そしてこの世のすべては神様のものです。神様こそがすべての支配者です。しかし、当時の世では神様は「カイザルのもの」(ローマによる統治)の存在を許されました。  現在の私たちも、神様を信じ、そのみ心に従って歩み、この世の生活において、政治による支配と秩序の維持に協力し、よりよい社会を築いていく働きを共に担いつつ生きていきます。 

2. 人は神のかたちに造られた
皇帝の像と記号(銘)がデナリ銀貨に刻まれていたように、私たち人間にも神の像(かたち)と銘が刻まれています。創世記1章26節は、人は神のかたちにかたどって造られたと語ります。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(旧約聖書 p.2)
   神様は、私たち一人ひとりを神のかたち、尊い存在として造られました。私たちにとっての銘は、人の心に刻み込まれる神の言葉(律法)です。「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。」(エレミヤ書31章33節 p.1100)そう考えると、ここでの「神のもの」は特に「人そのもの」のことです。私たちは、いろいろなものに属していますが、究極的には神のご支配の下にあり、神のものなのです。
人は、罪によって神のかたちを失ってしまい、神との交わりを失ったものとなってしまいました。イエス様は、私たちを罪から救い、神のかたちを回復するために、十字架にかかり、復活して下さったのです。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」     (コロサイ人への手紙1章15節 p.314)神様は、聖霊によって、私たちを日々、神のかたち、キリストに似る者へと造り変えて下さっています。「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」 (コロサイ人への手紙3章9-10節 p.317)

結 論)「神のものは神に返す」は、イエス様によって罪赦され、神のもの、神の子とされた私たちが、神を礼拝し、祈りながら、神と共に生きることです。

神に従い、祈りに生きることも、隣人のため、教会の奉仕のわざをするのも、神にお返しすることです。 私たちが出来ることはたとえ小さなことであっても、私たちの心、体、時間を神様のために用いさせていただきましょう。

(参考)
内村鑑三(1861-1930)の墓碑銘の言葉「我は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべては神のため」(銘の元の言葉は英語で書かれている)
ジョン・ウェスレー(1703-1791)は「神の像(かたち)」という題の説教をしている(1730年)。  「彼(ウェスレー)は、この神の像を…三重に区別する。
人間以外の被造物を愛をもって配慮する存在として創造された政治的神の像、神を知り、愛し、従うことのできる知的被造物として創造された自然的神の像、そして、義と聖 そのものである愛(神を愛し、人を愛する愛)が人間本性そのものとして創造された道徳的神の像である。」     (『ウェスレーの救済論』清水光雄著 p.41-42)