ルカによる福音書20章9~18節

ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。…そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。…」           ルカ20章13、17節 (p.124)

序 論) ユダヤの宗教指導者たちとの問答の中で、ご自分が「天からの権威」を持って、地上に来られた方であることを暗示された(20章3-4節、8節)イエス様は、次に「ぶどう園のたとえ」を通して、彼らの罪を指摘され、神様の救いのご計画を語られます。このたとえと詩篇の引用(17)によって伝えようとされたことは… 

本 論)神様は、ひとり子である御子を送られた
このたとえ話は、ぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して長い旅に出た主人の話です(9)。農夫たちはこのぶどう園で働き、そこで収穫を得、具体的にはぶどう酒を売り、その利益の一部を地主である主人に支払う義務を負っていました。
ところが主人がその取り分を受け取らせるために遣わした僕を、この農夫たちは袋だたきにし手ぶらで追い返しました。二人目、三人目の僕に対してもさらにひどい侮辱と仕打ちをします。(10-12)   僕では駄目でした。そこで、主人は最後の手段を取ります。「どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう。」(13)と不確かな思いをもって自分の愛する息子を送りました。しかし、その結果、彼はぶどう園の外に放り出されて、殺されてしまいました。(14-15)。ぶどう園の農夫たちは、この後継者(息子)がいなくなってしまえば、それは自分たちのものになるという思いがありました。このたとえ話を聞いていた人々が「そんなことがあってはなりません。」(16b)というほど、農夫たちは、主人、僕たち、息子に対してひどいことをしました。しかし、イエス様はこのたとえを通して、人々や指導者たち(祭司長たちや律法学者たち)にこれまでに実際に起こったこと、これから起こることを告げておられたのです。  このたとえで、主人は神様、農夫たちは宗教指導者たち、ぶどう園はイスラエル民族(イザヤ書5章7節 p.948)、僕たちは預言者、「愛子(あいし)」は、神様が愛される大事な息子、神のひとり子イエス様を表しています。
神様は、イスラエル民族にやがて救い主を送ることを預言者を通して彼らに伝え、悔い改めて神に立ち返るよう呼びかけましたが、彼らは預言者を侮辱し、迫害し、ひどい目に合わせました。ついに、神様は、「たぶん敬ってくれるだろう」と思って御子イエス様を遣わされました。
今も、神様は私たちがイエス様を神の御子、救い主として信じ、受け入れることを願っておられるのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節 p.139)

2. 神様はイエス様を「隅のかしら石」とされた
神様の願いに反して、宗教指導者たちは、このたとえ話の通りにイエス様を受け入れず、十字架の死にまで追いやりました。16節の言葉のようにこの後、彼らとイスラエルの民は国を失ってしまい(AD70年)、福音は異邦人に伝えられ、世界中にイエス様を信じる人たち(信仰によるイスラエル)が起こされることになります。続いてイエス様は詩篇118篇22節(p.853)のみ言葉を引用して語られます(17)。「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」 続く23節はこのように告げています。
「これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。」(詩篇118篇23節)  この詩篇の言葉が告げているように、驚くべきこと、不思議なことが起こりました。家造りらが、こんな石は要らないと言って捨てた石が「隅のかしら石」(「隅の親石」新共同訳 「礎(いしずえ)の石」新改訳)になりました。 つまり、建物の土台になったのです。この石は、先のたとえ話のぶどう園の主人(父なる神様)の愛する息子(御子イエス様)のことです。こんな石(イエス様)は要らないと家造りら(ユダヤの宗教指導たち)は捨ててしまいました。このたとえのようにイエス様は十字架にお架かりになり死なれます。しかし、この詩篇の言葉のようにその捨てられたはずのイエス様を神様は復活させられ、天の御座に引き上げられました。このお方イエス様が、私たちの人生の岩、土台となって下さったのです。
神様は、この世界にご自分のひとり子である、主イエス・キリストを送られました。普通ならばこれはあり得ないことです。なぜなら、すでに送られた僕たち(預言者たち)が命を奪われたり、危険な目にあっていたからです。そんなところに、神様は私たちを愛し、イエス様を送ってくださいました。にもかかわらず、私たち人間が神の御子を受け入れず捨てました。十字架の死がその結果でした。けれども、このことが私たちの救いとなります。イエス様の身代わりの死によって、私たちの罪は赦されたのです。
イエス様の十字架の死と復活、これが父なる神様のなされた驚くべき事、不思議なみわざです。

結 論) 神様がイエス様によって成された救いのみわざ、そして私たちの人生の土台となって下さるお方、イエス・キリストはどんなことがあっても揺らぐことはないし、どんなものによっても砕かれることはありません(18)。
これからも「隅のかしら石」、岩なるキリストに信頼し、キリストを土台とする者として歩ませていただきしょう。