ルカによる福音書20章1~8節

イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください。」 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか。」             ルカ20章2-4節 (p.124) 

序 論) ルカ20章は、イエス様がエルサレムに入られた後の受難週の六つの出来事が記されています。それらは明確な日付がつけられておらず、神殿の権威者(宗教指導者)たちとの一連の問答として語られています。今回の箇所で、彼らはイエス様に宮きよめをし、神殿で語る権威を授けたのは誰かということを尋ねました。主イエスが語られたことは… 

本 論)彼らに問い返された
ユダヤ教の指導者たちは、イエス様には「これらの事をする」(1)権威はないと思っていました。しかし、民衆の手前、表向きは「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、…」(2)と問いかけました。
イエス様に答えさせて「天から」と言えば冒涜罪で訴え、何も答えられなければ、実は誰からも権威を与えられていないことを民衆の前にさらけ出させようとしていました。  イエス様は彼らの意図を見抜かれ、逆に問い返されます。(2) 「洗礼者ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか」という問いでした。どうしてここで突然、洗礼者ヨハネのことを持ち出されたのでしょうか。それは、イエス様の権威を問題にしている彼らの本当の姿が明らかにされるためでした。
彼らは洗礼者ヨハネを神様が送られた預言者だと信じようとせず、拒みました。そのことは聖書でこう告げられています。「これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。 しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。」       (ルカによる福音書7章29-30節 p.97)   宗教指導者たちは、ヨハネが神からの者ではない、と判断し、そのように行動しました。そして、ここでイエス様に問われたとき、彼らは、どう答えようかと相談します。(5-6)天からだと答えれば、イエス様から「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と責められてしまいます。また「人から」と言えばヨハネを神から預言者と信じている民衆の怒りをかうことになります。それも避けたい、それで 「どこからか、知りません」と答えたのです(7)。
彼らが考えているのは、自分の立場や地位をどう守るかということのみです。真実は何か、神様に従い、本当に正しく生きるためには、どうしたらよいか、ということは全く念頭にありませんでした。神の権威ではなくて人間の権威を拠り所として生きようとするとき、人間は、このように真実に目をつぶり、都合の悪いことは「わからない」と言ってごまかし、自分の身を守ることしか考えない、罪ある姿を示してしまいます。
彼らの姿に、神の前にまっすぐに真実に向き合えない私たち罪ある人間の姿が表されています。イエス様は私たちが自分の罪に気づき、神様に心を向けることを願い今も、 み言葉によって問いかけ、働きかけておられます。

2. ご自身の権威が明らかにされる
宗教指導者たちは、イエス様の権威を問題にし、それを問いましたが、本当に権威あるお方である神様に従おうという思いをもっていませんでした。彼らは権威を自分のも のとして利用することしか考えておらず、神の権威に従うつもりもないのです。その彼らの姿もイエス様との問答を通して明らかにされました。
イエス様は、彼らに対して「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。」(8)と語られます。ここでは、「言うまい」とおっしゃいましたが、この後のたとえ(9-18)や彼らとの更なる問答の中で、ご自身の権威が洗礼者ヨハネと同じ天からであることを示していかれます。「天から」というのは「神様から直接に与えられた」権威ということです。本当に信頼できる言葉、私たちが自分の人生を委ね、従っていくに値する言葉は、人間の権威による言葉ではなく、神様の権威による言葉です。そういう言葉をイエス様は語られました。主イエスは、神の独り子としての権威によってみ言葉を語っておられました。「ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると」(1)とあるように、イエス様は毎日、神殿の境内で福音を告げ知らせておられたのです。福音とは、神の御子、救い主イエス・キリストがこの世に来られたことによって、神の国、神様の恵みのご支配が到来した、という喜ばしい知らせ、救いの知らせです。
イエス様は、その救いを実現するためにエルサレムに来られたのです。 

結 論) イエス様は何のために天から遣わされたのか。それは、エルサレムに来られ、十字架にお架かりになるためでした。私たちの罪を代わりに担って下さり、それゆえに私たちの罪を赦す権威を持たれました。罪を赦す権威をお持ちの唯一のお方がキリストです。「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」… (マルコによる福音書2章10節 p.53)
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4章12節 p.185)
このお方による以外にいかなる罪の赦しもなければ、救いもないのです。この権威だけにお頼りし、主イエスのご愛によって支えられ、生かされるのがキリスト者です。
(参考)1521年、ドイツ、ヴォルムスの帝国議でマルティン・ルターが語った言葉。
「私は聖書と明白な理性によって納得させられるのでないかぎり、…私は教皇と教会会議の権威を認めません。それらが互いに矛盾しているからです。私の良心は神の言葉の虜となっているのです。私は(自分がこれまで語り、書いたことを)取り消すことができないし、取り消そうとも思いません。…神よ、私をお助けください。アーメン」              (『総説キリスト教史・二』より)
(ルターは教皇の権威でも教会会議の権威でもなく、ただ聖書の権威に服した)