ルカによる福音書19章1~10節

イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」
  ルカ19章9-10節 (p.121)

序 論)イエス様と弟子たちはエリコの町に入ります。エリコは世界最古の城郭都市でエルサレムの近くにありました。門のすぐそばには収税所がありました。ザアカイは取税人のかしら(2)で、金持ちでした。イエス様がザアカイに語られ、なされたことは…

本 論)1.ザアカイの名を呼ばれた
  当時のユダヤ人は取税人を嫌い、犯罪人扱いにしていました。彼は、イエス様のうわさを聞き、強い好奇心をもってイエス様にお会いしたいと願っていました。いちじく桑の木に登り、身を木陰に隠し、のぞき見ようとするザアカイに対して、主イエスの方から、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい」と語りかけて下さいました。(5) ザアカイはこの時まで、主を知らなかったのに、主は彼のすべてを知っていて下さいました。
イエス様は、私たちのこともすべて知っていて下さり、私たちに対して最高の配慮をし、導きを与えて下さいます。
「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とは唐突なお言葉に思えます。それは、木に登ってまでもイエス様にお会いしたい、とキリストを求めるザアカイの願いを知られた、主の応答でした。(原文では「あなたの家に泊まらねばならない」という非常に強い断定的な意味を表す言葉が用いられています。ザアカイの救いのためにそうせねばならない、という神様のご意志、ご計画があるという意味が込められた表現。)
イエス様は、切実に求める者の思いを知って下さるお方です。彼は、莫大な富を手にしていましたが、人々からは軽蔑され、罪人呼ばわりされる中で、心の中には満足できない寂しさがあったに違いありません。
かつて大金持ちの役人は、永遠の命を求めてイエス様のもとに来たのに、富にこだわって主に従うことができませんでした。その時、主イエスは「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう…」と言われました。人々が「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエス様は「人にはできない事も、神にはできる」と答られました。(ルカ18章18-27節 p.121)このときに言われた言葉が、金持ちであり罪人と言われていたザアカイの上に実現しました。

2. 悔い改めに導かれた
ザアカイはイエス様を大喜びで迎え入れました(6)。ザアカイの家に立ち寄り、温かい交わりをもってくださったイエス様のご愛は彼に罪を自覚させ悔い改めへと至らせたのです。彼は全く変えられました。自分の財産の半分を貧民に施すと誓ったのです。(8) 大金持ちの役人にはできなかったことをザアカイは自主的に申し出ました。さらに不正な取り立て については四倍にしてつぐなうと言うのです。イエス様にお会いしたことによって彼は本当に変えられました。彼は全く新しい人間に造り変えられ、新しい生き方をする者となったのです。イエス様に出会っていただいた恵みは、その後も彼を支え続けたことでしょう。
ザアカイの悔い改めと具体的な行いの申し出を聞かれたイエス様は、「きょう、救いがこの家に来た」(9)と言われました。これは、一人の人の救いが家族や周囲の人々に祝福をもたらすことを示しています。(イエス様のご愛と恵みに応答し、悔い改めの心を具体的な行いで表すこと、実行することを「悔い改めの実を結ぶ」と言います。 ルカ3章8節 p.88 参照) 真の神様を信じ、従うユダヤ人は「アブラハムの子(子孫)」(9)ですが、イエス様を信じ、従う者も、神様がアブラハムを通して与えようとしておられる祝福を受けることができるのです。  (ガラテヤ人への手紙3章6-9節 p.295 参照)

結 論) 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(10)のみ言葉は、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5章32節 p.92)のみ言葉と共に、イエス様の使命の中心を表しています。
心の中で救いを、そして救い主(キリスト)を求めていたザアカイを尋ね出し、救って下さったイエス様は、今も、すべての人々を捜し求めておられます。まだ、イエス様を知らない人たちが一人でも多く、イエス様を知り、お出会いすることができるように、まず私たちがキリストの御前に出て、主との交わりを深め、主と教会に仕えさせていただき、それぞれができる奉仕に励んでまいりましょう。