ルカによる福音書18章28~34節

イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。…」     ルカ18章31節 (p.121)

序 論)律法を守っていると自負していた役人は、イエス様の言われたことを実行することができず、主のもとから去って行きました(18-23)。その後、神様が全能のお方であることを語られたイエス様に、ペテロが言います(27-28)。
 それを聞かれたイエス様がペテロと弟子たちに語られたことは…

本 論)1.神の国と永遠の生命
  ペテロの言葉は、他の十一人の弟子たちの気持ちも表している言葉でした。ペテロたちは、去って行った役人(青年)と同じレベルで考え、自分の払った犠牲の大きさに応じて 神様からの報いがあるはずだと考えていました(28)。   ペテロがイエス様に言ったことは、かつてガリラヤ湖で、なした決心のことでした。イエス様は、ペテロたちに、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」とご自分に従って来るように招かれました。そこで、彼らは舟を陸に引き上げて、いっさいを捨ててイエス様に従ったのです。(ルカによる福音書5章10-11節p.91)   イエス様は、ペテロたちに「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、…。」(29)と言われ、祝福を約束されました。
  「家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」(29)は、ペテロやヤコブたちが実際に経験したことが含まれています。同時に、後の初代教会時代に起こる迫害のことも予見しておられたのでしょう。そして、約束の言葉を語られました(30)。神の国のために歩む者は、神様に知られていて、この地上での命だけではなく、永遠の命に生かされるのです。
ではこの地上で、この時代に犠牲にしたものの何倍も多く受けるとは何を受けるのでしょう。マルコによる福音書では、「今、この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および 畑を迫害と共に受け」(マルコ10章30節 p.69)と言われています。ここで、イエス様を信じて歩む者は、信仰を共にする仲間の交わり、主にある家、兄弟、姉妹、母、子を新たに与えられる、それも100倍も尊いものとして与えられる、と仰ったのです。
「神の国のために」(ルカ18章29節)は、「主イエスのために」ということでもあります。主イエスのために歩む者には、必要なものすべては添えて与えられます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」  (マタイによる福音書6章33節 p.9)のみ言葉のように、神の国を求めることを第一として歩んでいきましょう。

2. 三度目の受難予告
この後、イエス様は三度目の受難予告をされます(31-32)。(一度目は、ルカ9章22節p.102、二度目は9章44節p.103)三度目の予告では、「異邦人に引きわたされ」(32)と ローマ人に引き渡され、ローマ人の方法で、刑に処せられること、すなわち十字架の死がさらに暗示して語られます。「はずかしめを受ける」(32)は、「乱暴な仕打ちを受け」(新共同訳)とも訳されています。この箇所は「乱暴する」「侮辱する」という意味の動詞が使われていて、そのもとになっているのは「傲慢」という意味です。つまり「はずかしめを受けた」は、「傲慢による苦しみを受けた」ということです。イエス様が受けられた、異邦人(ローマ人)による肉体的な乱暴も、精神的な侮辱も、人間の傲慢、心の中の罪から起こったことでした。
ルカ福音書はこの箇所で、主イエスを苦しめ、死に追いやったのは、人間の傲慢、神様に対する罪であることを語っています。取税人を見下し、神殿で祈ったパリサイ人(18章11-12節)や自分の持っているものに頼りそれを誇っていた大金持ちの役人(18章18-23節)の姿にも、人間の傲慢の罪が現れています。イエス様は、ここで予告された通り、私たちの罪がもたらした、肉体的精神的なあらゆる苦しみをご自分の身に負って下さり、十字架の上で死なれました。しかし、それに続いて「そして三日目によみがえるであろう」(33)ということもここで予告されています。私たちの罪のため、ペテロたちが捨てたものとは比べることができない大きな犠牲を払って下さった、つまりご自分の命を捨てて下さったイエス様を、父なる神様が復活させて下さったのです。それは、神様の恵みが私たちの罪と死に打ち勝ったということです。人間の傲慢と罪がもたらした死が、主イエスの復活によって打ち破られ、新しい命、永遠の命の道が切り開かれました。
イエス様の語られた受難と復活による、救いは、預言者たちが書いたこと、つまり旧約聖書で語られていることの実現でした(31)。すなわち、救いの実現は、神様のみ心によるものでした。その神様のご意志、ご計画を実現するために、このとき、エルサレムに上って行こうとしておられました。

結 論)この受難の予告が語られたのは、十二人の弟子たちに対してでした(21)。
イエス様を信じ、従い、エルサレムへの旅路を共に歩んでいる弟子たちにこそ、この受 難の予告は語られたのです。しかし、彼らはイエス様の言われていることが理解できませんでした。(34)  「この言葉が彼らに隠されていたから」(34)です。しかし、後に復活されたイエス様とお出会いし、聖霊を受けた彼らは、心(霊的な眼)が開かれて、イエス様の十字架と復活による救いを告げるみ言葉を受け入れ、そのみ言葉(福音)を宣べ伝える者へと変えられました。
「人にはできない事も、神にはできる。」(27)とイエス様が言われたように、主イエスは、私たちの罪を赦し、聖霊によって、私たちの力ではどうしようもできない傲慢な心を砕き、取税人(13-14)や幼な子(17)のような謙遜な心を与えて下さいます。
そして神を礼拝し、日々、聖書を読み、祈りながら歩む者に、今も生きておられるイエス様は語りかけて下さり、主を信じ、従う者へとさらに造り変えてくださるのです。