ルカによる福音書18章18~30節

イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」            ルカ18章23節 (p.121)

序 論)あるとき、一人の役人がイエス様のところにやって来ました。(マタイ19章22節では「青年」、マルコ10章22節では「資産家」)イエス様と彼のやり取りの中で示されることは…

本 論)1.主イエスは彼を愛し、招かれる
「…永遠の生命が受けられましょうか。」(「永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」新共同訳)(18)永遠の命は、自分で獲得するものではなく、「受ける(受け継ぐ)」ものだということを彼は知っていました。
彼の「良き師よ」(18)という呼びかけを受けて、イエス様は彼の心を神様に向けさせ(19)、十戒を示されます(20)。(ここでは、第5戒以下の対人関係についての律法)   彼は答えます。(21) この人には、小さい時から、律法をずっと守ってきたという自負がありました。マルコ福音書は、このとき、イエス様は「彼に目をとめ、いつくしんで言われた」(マルコ10章21節 p.68)と語ります。そして、主イエスは、彼にご自身に従ってきなさい、と招かれました。(22)  彼は、自分では十戒を守ることができていると思っていましたが、永遠の命を受ける確信を持つことができませんでした。何かが足りないと感じているこの青年に対して、持ち物を売り払い、貧しい人々に分け、ご自身に従うことを求められました。(22)   そのことを通して、イエス様は彼に「天に宝を持つ」とは、どのようなことかを教えようとされたのです。(22)地上の富、つまり自分がどれだけ財産を持っているか、あるいはどれだけ良い行いをすることができるか、奉仕に生きることができるか、そういうことにより頼み、それを一番大切にするのではなく、神様とその恵みにより頼み、神様との関係を一番大切なこととして生きることが、天に宝(富)を積むことです。
イエス様が彼に「あなたのする事がまだ一つ残っている」(22)と言われたのは、財産を売り払って施しをするというもう一つの善い行いではなくて、自分の持っているもの、あるいは出来ることによって神様の救いを手に入れようとする思いを捨てて、ただ神様の恵み深さにより頼み信頼して生きることでした。主イエスは彼にそのことを気づかせようとされたのです。

 

2. どうすれば永遠の命を受けることができるのか
しかし、彼はイエス様の勧めと招きを受け入れることができませんでした。大金持ちである彼は、自分の全財産を捨てることが出来なかったのです(23)。彼がそのことを非常に悲しんでいる所に、イエス様の教えを真剣に受け止めようとしたこの人の誠実さが示されています。
彼のその姿を見てイエス様は、言われます。(24-25)ここで、「永遠の生命を受ける」ことと「神の国に入る」ことが同じことを意味していることが示されています。財産のある者がそれを捨てて、イエス様に従い、神の国に入ることは「らくだが針の穴を通るよりも」難しいことだと言われます。(ほぼ不可能であることを意味するユダヤの誇張的表現) 当時のユダヤでは、財産を豊かに持つ者は、神様から祝福された者であると考えられていました。そのような者でさえ、神の国に入ることは難しいと言われるのであれば、誰が救われることができるかと人々は考え、イエス様に尋ねます(26)。
イエス様は「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。(27) このみ言葉は、二つのことを意味しています。一つは、「人間の力ではできない」ということです。イエス様が言われるように全てを捨てて、主に従うということは人間にはできない。しかし、もう一つのこと、神様にはお出来になるということも語っておられます。神様の御力が働くときに、このことは可能になるのだ、とイエス様は仰るのです。
財産のある者、つまりいろいろな意味で自分の持っている者に依り頼み、それに固執し、それを手放すことができずにしっかり握りしめている者が、その手を離し、神様に自分の身を委ね、神様に依り頼んで生きる者とされます。そして、それまで、自分の握りしめていたものを、隣人のため、貧しい人々のため、苦しんでいる人々のためにささげ、用いていく、そのことが神様の力によって可能となるのです。
そのようないろいろな執着、罪に捕らわれている私たちを救うために、イエス・キリストはこの世に来て下さいました。そして私たちの罪をすべて背負って十字架の苦しみと死とを引き受け、私たちの罪の赦し、救いのみわざを成し遂げて下さったのです。

結 論)神と富に兼ね仕えていた彼は主の言葉と招きに従うことはできませんでした。(マタイ6章24節 p.9 参照) このとき彼がイエス様のもとから立ち去らず、主から命じられたことを実行できない自分の罪に気づき、弱さを認め、イエス様にあわれみと救いを求めていれば、イエス様は彼の罪を赦され、このようにしなさい、とさらに彼に必要な行くべき道を示されたことでしょう。
同じルカ18章の、取税人の祈り(13-14節)や幼な子について言われた箇所(16-17節)が示しているように、自分の無力さを認め、主イエスにすがり、主の救いを信じる者のみが神の国に入り、永遠の命を受け継ぐことができるのです。
救いは人の力によっては得ることはできません。ただ、神様のみがなされるみわざです。イエス様の十字架と復活による救いは、神様からの賜物です。私たちは、それを信じ、感謝して受け取るだけなのです。