マタイによる福音書第5章3節

こころの貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。 マタイ第5章3節

「埴生の宿」という歌から思うことを申し上げたい。

書読む窓もわが窓   瑠璃の床もうらやまじ
きよらなりや秋の夜半  月は主、虫は友
おお、わが窓よ   たのしとも、たのもしや  (2節)

この歌には、生活は貧しくても心豊かに生きる理想のようなものが歌われているといえるであろう。たとえ経済的には貧しくても「心は豊か」でありたいと願う。それが幸せに生きる道だと言われれば、なるほどその通りだろうと思う。
ところが、キリストは言われる。
「心の貧しい人たちは、さいわいである」
このキリストの言葉は――心の豊かな人間になりましょう。そうすれば幸せに生きることができます、というような一般的な道徳を語るものでないことは明らかである。
この不思議な言葉を理解するための鍵になるのは「心」と「貧しい」という言葉である。「心」……ギリシャ語原文は、「霊」と訳すことのできる言葉が使われている。
「貧しい」……徹底した貧しさ、物乞いをしなければならないような貧しさを表している。 霊において徹底的に貧しいとは、神との関係が貧しいということである。
キリストが人々の生活をごらんになりながら憐れみの眼差しで見ておられたのは、人々の経済的な貧しさだけではなかった。神との正しい関係を損なってしまっている人間の貧しさを見ておられたのである。そのような霊的な貧しさによってもたらされる心の貧しさというのは、言い換えれば、愛の貧しさということでもある。
マザー・テレサが来日した際、顔を曇らせながら語った言葉がある。

――この国は清潔だ。道端に病人が横たわっているようなこともない。しかし、この国の貧しさを私は思う……

こうした「心の貧しさ」は、それ自体が幸いであるなどとは到底言えないことである。しかし、そのような我々の心の貧しさを、キリストは、じぃっとごらんになったうえでお語りになるのである。
「心の貧しい人たちは、さいわいである」
あるスイスの牧師がこういうことを書いている。
キリストが、山上の説教をお語りになったときに、近くには弟子たちが座っていた。そして更にその周りには、群衆がいて、弟子たちと一緒にキリストの言葉に耳を傾けていた。その群衆の更に後ろの方には、当時、ユダヤ人から忌み嫌われていた取税人や売春婦が、人々に気づかれないようこっそりと、キリストの話しを聴いていたことであろう。キリストはそのような取税人や売春婦がいることを承知した上で明言されたのである。
「心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」
この牧師の聖書解釈は誇張ではない。福音書全体を読んで行くならば、キリストは、まさに取税人や売春婦のような人たちに幸いをもたらしているからである。
「心の貧しさ」ということについて、―――ああ、私はなんと罪深い人間か……とそのように自分を思うことのできる心の状態を指しているという説明を聞くことがある。
しかし、自分の罪深さに気づくことができるということは素晴らしいことであり、そのような心は、もはや貧しいとはいわないであろう。自分の罪深さを嘆くことのできる心というのは、ひとつの高みに引き上げられた豊かな心ともいえる。
キリストが語る「心の貧しさ」とは、神がどれほど人間を愛してくださっているか、神がどんなに深く我々を憐れんでいてくださっているか、その事実に気がつくこともなく、また気づこうともしない心であるといえる。そして、そのような貧しさというのは、不幸以外の何ものでもないのである。
しかし、キリストは、そのようなどうしようもない心の貧しささに陥ってしまっている全ての人に対して「心の貧しい人は、さいわいである」と語ることを断じてお止めにならない。そして、人々の心の貧しさに祝福を注ぐために十字架にかかられたのである。
これは、我々の理解を超えた、驚くほかにない恵みである。