ルカによる福音書18章15~17節

「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければそこにはいることは決してできない。」
ルカ18章16-17節 (p.120)

序 論)イエス様は弟子たちやパリサイ派の人たちに、再臨の日まで忍耐し祈り続ける信仰(1-7節)、心の中をご覧になる神様の御前に謙遜に祈ること(9-14節)を教えられました。その後、人々が幼な子らを、イエス様のもとに連れてきました(15)。イエス様のなされたことと言われたことは…

本 論)1.幼な子らを招かれる主イエス
「幼な子らを」(15)は、「乳飲み子までも」(新共同訳)とも訳されています。
イエス様に「さわっていただくため」(15)は、「そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」(マルコによる福音書10章16節p.68)とありますように、幼な子らを祝福していただくためでした。
ところが弟子たちは、この親たちをたしなめました(15)。彼らは、子どもたちがお話しされるイエス様の妨げになってはならないと思ったのかもしれません。
しかし、イエス様の御思いは弟子たちとは反対でした。
マルコ福音書は、このとき「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、…」と告げています。(マルコ10章14節p.68) 子どもたちを連れて来た親たちを叱った弟子たちに対してイエス様は憤られた、お怒りになったのです。
福音書記者のルカは、「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた」(16)と語ります。福音書記者マルコはイエス様の怒りを語っているのに対し、ルカは幼な子たちをご自分のもとに呼び寄せ、招いておられるイエス様のみ姿を強調して語っています。
イエス様は、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」(16)と語られました。「来るままにして おきなさい」という箇所は、直訳すると「来ることを許しなさい」となります。それは「止めてはならない」(「妨げてはならない」(新共同訳))と同じことです。子どもたち が私のもとに来ることを、妨げずに許しなさい、とイエス様は仰ったのです。
イエス様は、今も幼な子(乳飲み子)を含めた子どもたちをご自分のもとへと招いておられ、呼び寄せておられます。

2. 神の国を受け入れる者
今回の箇所の主題は、子どもたちに対するイエス様のご愛ではなく、神の国は誰のものか、ということです。「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(17)「神の国」とは神様のご支配という意味であり、神様の救いにあずかること、すなわち救い主イエス様によって、そこに入ることができます。では、神様の救いにあずかることができるのは、どのような人なのでしょうか。「神の国はこのような者の国である。」(16) 「このような者」とは、幼な子らや子どもたちのことです。「子どものように」とは、「子どものように素直で純真な汚れを知らない人」ということではありません。
子どもが親や教師の言葉を信頼して受け入れるように、幼な子(乳飲み子)が、ただ与えられたものをいただくことによって生かされているように、私たちはただ神様を信頼し御子イエス様を信じ、心に受け入れることによって、神の国に入れられるのです。
幼な子たちがそうであるように私たちも、神様の恵みや祝福をきちんとわきまえず、自覚できていない者です。イエス様はそのような神様から遠く罪ある私たちをも呼び寄せ、招いて下さったのです。そのために、イエス様は私たちの全ての罪を背負って十字架にかかられ死なれました。主イエスの十字架と苦しみと死、そして復活こそ、罪人である私たちへの招きのしるしです。

結 論)「パリサイ人の祈りと取税人の祈りのたとえ」(9-14)において、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(13)と祈った取税人も、神様の招きによって神の国に入れられた人です。神様はこの祈りに応えて彼を義として下さいました(13)。
「幼な子のように神の国を受け入れる者」(17)は、この取税人のように、自分の罪を認め、神様にあわれみを祈り求めていく者です。
神の国は、この罪の赦しの恵みによるご支配です。その神の国が主イエス・キリストによって既にもたらされています。
私たちは、主イエスの十字架の死と復活を覚えつつ歩みます。そのことによって、神様が主イエスを通して私たちを神の国に招き、呼び寄せて下さっていることへの確信が強められていきます。
子どもが親に信頼するように、私たちも神様にさらに近づき、イエス様がもたらされる恵み、御国の特権を、自分を低くして(17)、謙虚に受け入れましょう。