「…ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」 ルカ18章13-14節 (p.120)
序 論)弟子たちに、「不正な裁判官のたとえ」によって祈りについて教えられた(1-8)
イエス様は、次に「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たちに対して」(9)、「パリサイ人と取税人の祈りのたとえ」を話されました(10-13)。このたとえを通して示されることは…
本 論)1.神の前にひとりで立つ
パリサイ人は神様に感謝の祈りをささげています。(11)この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう連中とは違う、特にあそこにいるあの取税人のようなとんでもない罪人とは全く違う生き方ができています、と彼は感謝しています。(自分がどのような者でないかを述べている。)さらに彼は、自分が神様に仕えてどのような信仰の行為、奉仕をしているかを語ります(12)。彼は、断食、献金において他の人々ができないような素晴らしい信仰的行いをしていると述べています。(自分がどのような者であるかを述べている。) 「自任(自認)する」(9)のもとの言葉は「より頼む」という意味で使われることが多い言葉です。「自分は義人(正しい人)だからと自分自身により頼んでいる」(9)とも訳せます。(新共同訳では「自分は正しい人間だとうぬぼれて」)そして「ひとりでこう祈った」(11)の箇所の原文を直訳すると「自分自身に向かって祈った」となります。彼の祈りの言葉は、「独り言」になっていました。彼は神様により頼まず、自分自身により頼んでいました。彼の心と祈りは神様にまっすぐに向かっていなかったのです。
それに対して取税人の祈りは、神様にのみ向けられています。「罪人のわたしを…」(13)と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを比較してどうだということでは ありません。彼の目には、周囲の人間は全く入っておらず、ただひたすら神様のみを見つめ、神様による罪の赦しを願い求めて祈っているのです。
つまりこの二人の違いの根本は、本当の意味で祈っているかいないかです。神様を本当に見つめ、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べてばかりいて、 人間の前に立っているか、ということです。(島崎光正氏(1919-2000 詩人)のある礼拝の中での体験談 「深い寂寥感(せきりょうかん)を感じた」)
祈りや礼拝は、神様の御前に立つことであり、そのことを強く覚える(意識する、確認する)ときです。そして、心を真っ直ぐに神様に向けるときです。
2. 神に義とされる
「神様、罪人のわたしをおゆるしください。」(13)「神様、罪人の私をあわれんでください。」(新改訳2017)「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください。」(新共同訳) 取税人の祈りは、神様に罪の赦しを求める祈りであり、憐れみを求める祈りでもあります。 「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ。)」(ラテン語)は最も短い祈りの言葉の一つです。彼は、自分の罪によって失われている神様との関係がもう一度回復されることを願って祈りました。神様が憐れんで下さることを信じて、神を信頼して祈ったのです。取税人は自他ともに認める不義の者、罪ある者です。義からほど遠い人です。でも13節の祈りの後、続く14節でいきなり彼は義とされた、とイエス様は言われます。
なぜ、罪人の最たる者が赦されて、義とされるのでしょう。取税人がまったくの不義から義とされる。この大転換の背後にイエス様の十字架があるのです。まもなくイエス様はエルサレムで十字架にお架かりになろうとしておられました。この後、すぐにイエス様は三度目の十字架の死と復活の予告をされます。(ルカ18章31-33節 p.121)イエス様は私たちの不義(罪)を引き受けてくださり、私たちが罪赦されて義とされるために、十字架に架かられたのです。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 」 (ローマ人への手紙3章24節 p.237)
「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 」(ローマ人への手紙5章9節 p.239)
取税人が義とされて家に帰ることができたのは、神の憐れみとイエス様の赦しの故です。私たちの罪の赦しを求める祈り、悔い改めの祈りを神様が聞かれ、義として下さるのも、キリストの十字架の故なのです。
結 論)私たちは、パリサイ人のように人のことばかり気にし、人と比べ合ってしまいやすい者です。その目と心を神様の方に向け、畏れをもって御前に立ちましょう。そのとき、私たちはこの取税人のように自分を低くする者とされます。
私たちは、ただ神様を信頼し、「砕けた悔いた心」(詩篇51篇17節 p.792) で祈りましょう。
「わたしはおのれみずからのことに関しては、ただかの取税人の祈りを繰り返すのみである。いわく、神よ罪びとなる我をあわれみたまえ。」
(ウィリアム・ウィルバーフォース (1759-1833)
(イギリスの政治家、博愛主義者、奴隷廃止主義者。 奴隷貿易に反対する議会の運動のリーダーを務め た。)の臨終の際の言葉。)