また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「…あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。 ルカ18章1、8節 (p.120)
序 論)弟子たちに、「人の子の到来」(17章22-37節p.119 ご自身がもう一度、地上に来られること)について語られた後、「不正な裁判官のたとえ」により、祈りについて語られます。(「人々」(1)は17章22節と同じ「弟子たち」のこと)イエス様の伝えようとされたことは…
本 論)1.神様は祈りに応えてくださる
当時のユダヤ教では、祈るのは一日3回で充分、と教えられていました。
でも、イエス様は「常に」祈ることを教えられます(1)。たとえ話の中の裁判官は、「神を恐れない」人でした。(2)(「神を畏れず」新共同訳) 彼は神を信じず、神のさばきをあざわらっていました。「人を人とも思わない」は、人のさばきや非難を意に介さないことです。当時の社会の弱い立場の代表である「やもめ」がこの裁判官に正しいさばきを求めて何度も訴えました。(3)彼女の正当な訴えもなかなか取り合ってもらえませんでした。それはまさに「失望してしまう」ような現実でした。しかしこのやもめは、そのような現実の中で絶えず求め続けたのです。イエス様は彼女の姿に、失望せずに常に(絶えず)祈る者の姿を示しておられます。彼が彼女のためになる裁判をしてやろうと思った理由は、彼女が自分に「面倒をかけるから」であり、「絶えずやって来てわたしを悩ます」からでした(4)。後者は原文では「(拳闘のように)私の目の下を打つ」という意味の言葉が使われています。それほど激しい気持ちをもって、彼女は裁判官に求めていきました。
そして、この不正な裁判官でさえ、このやもめに対して正しい裁判をしてやろうと思うのだから、「まして神は…」と、神様は私たちの祈りを聞き、それに応え、正しい裁きをなして下さるお方なのだとイエス様は言われます。(6- 7節) 神様は私たちの困難、恐れ、助けを必要としていること等、すべてご存知であり、私たちの祈りに応えて下さいます。そして確かに正しいさばきを行って下さり、神の国を完成して下さるのです。
2. 主の再臨を待ち望む信仰と祈り
今、この世は「神を恐れず、人を人とも思わない」力、罪に支配されています。かつての私たちも、神を知らず、人に対する愛を失っていた者でした。しかし、イエス様はそのような私たちを救うために地上に来られ、私たちの罪の罰をご自身の身に受けて十字架にかかり、復活されたのです。イエス様を通して私たちは真の愛を知り、キリストの愛を内にいただいて、神を愛し、人を愛する者へと変えられていきます。
「日夜叫び求める選民」(7)は、福音を聞き、イエス様を信じて救われた人たちのことです。私たちは、周りの人たちに良い影響を与えるため、福音を証しするために神様から選ばれた者です。「叫び求める」のはやもめのように、神様に正しいさばきを求め続けることです。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(8) 「人の子が来るとき」という言葉から、この箇所が、17章後半の「神の国が来る」というメッセージから続いて語られていることが分かります。
「人の子」とはイエス様のことです。その人の子、主イエスが、もう一度この地上に来て下さいます。それは、稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように起こる(ルカ17章24節p.119)、そしてそのときに、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、つまりさばきが行われることをイエス様は語られました(ルカ17章33-36節 p.119)。それが、ここでの 「神がすみやかにさばいてくださる」(8)とき、神の国の完成のときです。そのとき、イエス様は「地上に信仰が見られるであろうか。」と言われます。その「信仰」とは、主イエスの再臨による神の国の完成を信じて、この世の目に見える現実によって失望せずに常に祈ることです。
結 論)主イエスによって既に成された救いのみわざ、神の国の雛形(ひながた)である教会を覚え、神の国の完成を願ってイエス様が再臨されることを待ち望むこと、イエス様は私たちがその信仰に生きることを願い、期待して、8節のように語っておられるのです。
神様は、私たちの感謝、とりなし、悔い改め、願い求める祈りを聞いて下さると共に私たちが主の御心を知り、それに従うことを願っておられます。そして、祈りを聞かれるお方、神様は、私たちのすべてをご存知であり、一人ひとりを大切に思われ、最高の助け、最上の解決を備えておられる方なのです。主を信頼して祈り続けましょう。
私たちは、聖書と祈りにより、イエス・キリストに触れ、交わりを深め、父なる神の御愛とあわれみを知ります。神様が主イエスによって私たちのために成して下さったことを示されるとき、私たちは、イエス様の言われた通り、失望せず常に祈りの姿勢を持つことができるのです。