ルカによる福音書17章20~37節

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」             ルカ17章20-21節 (p.119)

序 論)エルサレムに向かう途中、イエス様は10人の重い皮膚病の患者を癒されました。(11-19節) その後、パリサイ人たちの神の国についての問いに答えられ、弟子たちにも語られます。イエス様の語られる神の国は…

本 論)1.神の国の開始
パリサイ人たちは、神の国はいつ来るのか、どのようにして来るのか、どのようにして来るのか、という問題に関心を抱いていました。イエス様は、まず「神の国(神が王として支配なさること)」は目に見えるしるしを伴って、あるいは地上の王国として、神の国は来るのではない、と答えられます。(20-21) そして、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(21)と言われます。
神の国(神様のご支配)は、イエス・キリストが地上に来られ、人々に福音を宣教されたときから始まりました。(マルコによる福音書1章15節 p.51)イエス様を神の御子、私の救い主と信じる人の心の内に神の国は始まります。十字架にかかられ、復活されたイエス様が、今、このとき、私たちと共におられ、支配していてくださいます。
「あなたがたのただ中に」(20)は「あなたがたの間に」とも訳せます。主を賛美し、聖書のみ言葉を分かち合い、祈りをささげるとき、私たちの間(あいだ)に神の国があります。
このように、私たちの内に始まる神の国は、だんだんと目に見えるかたちとなって表われてきます。使徒行伝に記されているように、イエス様が復活され、昇天され、弟子たちに聖霊が与えられた後、世界各地に教会が建てられていきました。教会という建物に神の国があるのではありません。イエス様が十字架にお架かりになり、復活された。そのことを信じる者たちの集まりが教会です。主の御名によって集まる私たちの間に神に国があります。イエス様がすでにこの世界のご支配を始めて下さっています。私たちが神の国、神の御支配を伝え運ぶ者とされているのです。

2. 神の国の完成
「人の子」(22)はイエス様ご自身を指して使われる言葉です。いろいろな場面で主イエスはこの言葉を使われましたが、今回の箇所では何度も繰り返し、「人の子」という言葉を用いておられます。イエス様が「人の子」と言われる場合には、よく十字架での受難のことが言われます(25)。
しかし、それだけでなく、今回の聖書箇所で語っておられるように、イエス様が世の終わりのときに再び来られること(再臨)を言われる場合も、「人の子」という言葉を使っておられます(24節、26節、30節)。イエス様がもう一度地上に来られるとき(再臨)はいつなのか。それは私たちにはまだ知らされていませんので分かりませんが、そのときは世(世界)の終わりのときです。私たちキリスト者は世界をどう考えているでしょう。神様がこの世界(全宇宙)を創造されたことを信じています。使徒信条でも「天地の造り主」と告白します。神様が世界を創られた(始められた)のですから、「終わり」(神の御国の完成)へと導いて下さいます。その終わりのときには「人の子」、イエス様が再び来られますが、そのときには「さばき」があるのです。34~36節では、同じような生活をしていても、さばきの結果が違うことが告げられています。
イエス様が再び来られること、さばきがあることを軽く考えてしまったり、信じなかったとしたら、今回の聖書のみ言葉が告げているように、ノアの時代の人たち、ロトの時代の人たちと同じです。(28-29節) 人々は、その日、その時が来るまで何事もなかったかのように、普通に生活していました。しかし、その時は突然やって来たのです。 (ノアの時 創世記6章~9章 p.6~10)  (ロトの時 創世記19章 p.20~22)

結 論)今回の聖書箇所は、人の子、イエス様が再臨されることが大きなテーマです。しかし25節だけは、人の子の受難が告げられています。イエス様が十字架に架かかられることを、ご自分で予告しておられるのです。再臨よりも前に、十字架の出来事が起こります。
イエス様が十字架に架かられる前日の木曜日の夜にイエス様は逮捕され、その夜のうちに裁判が始まりました。裁きが行われたのです。翌日の金曜日の朝も、裁判が行われ あっという間に有罪の判決、十字架での死刑の判決が下りました。
終わりの日の裁きの前に、イエス様に対する裁きが行われました。人の子イエス様が、まず私たちの身代わりに有罪になって下さいました。私たちの裁判も終わりの日に行われます。「生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」(使徒信条)しかし、私たちの代わりに有罪になって下さったお方イエス様を信じている者は、終わりの日にも無罪宣告が なされるのです。
ノアやロトの時代、地上の生活を楽しむだけの人々は滅ぼされました。しかし、神様を信じ、イエス様との交わりに生きる私たちは、必ず滅びの中から救い出されます。  (「はげたか」(37)は神のさばきを「死体」(37)は神様との交わりを失っている人を象徴しています。)   イエス様が一番望まれたのは、主イエスを信頼して、主と共に生きることです。そのときに私たちの内に(間に)神の国は実現します。イエス様との交わりの中に生かされる時、私たちは神の前に正しい生き方ができるだけでなく、恐れずに希望をもって主の再臨を待ち望むことができるのです。