ルカによる福音書17章1~10節

「…同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。
ルカ17章10節 (p.118)

序 論)イエス様を信じて従ってきた弟子たちに、主は、赦し、信仰、奉仕について語られます。イエス様が弟子たちに伝えようとされたことは… 

本 論)

1.主からいただく赦しの心
まず、弟子たち自身が罪の誘惑を来たらせる者、誘う者となってはいけない、と言われます。(1-2)。「罪に誘惑する」の元の言葉は「つまずかせる」とも訳されています。 「つまずかせる」とは、神様とイエス様の救いから遠ざけてしまうことです。イエス様を信じ、神様の恵みの支配の中に生かされている人は、他人に対する配慮をもって生きる者へと変えられていきます。それは、イエス様を信じる者には聖霊によって神の愛が注がれ続けているからです。「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」   (ローマ人への手紙5章5節 p.238)
  次に、兄弟(信仰の仲間)が罪を犯したなら、彼をいましめ、悔い改めたなら赦しなさい、と言われます(3-4)。イエス様の「七度のゆるし」すなわち「無限にゆるしなさい」という教えに使徒たちは心を動かされました。それを行うには、信仰が必要だと考え、「信仰を増してください」と願ったのです。いま兄弟をゆるせないのは信仰が弱いからで、信仰が増せばゆるせるようになる、彼らはそう考えて、信仰の増加をイエス様に願いました。彼らの願いを聞いてイエス様は答えられます(6)。信仰が薄いからゆるし合えないのではなく、端的に信仰がないからだ、と。からし種一粒ほどの信仰があれば十分なのに、それがない、と言われます。
でも、使徒たちの信仰を求める一途な気持ちをよくご存じのイエス様は、彼らの信仰のなさを責めることをせず、むしろ信仰を持つように励まされました。あなたたちにもできます、からし種一粒ほどの信仰で十分です。信仰の多い少ないの問題ではありません。真の信仰を持つなら、無限に赦すこともできるようになります、と。
桑の木に「海に植われ」と命ずるなら桑の木はそれに従うのだと言われます。これは不可能に思えることが可能になることを表しています。たとえからし種一粒の信仰であっても(小さな信仰であっても)、真の信仰があるなら、その大きな力は計り知れません。イエス様を信じる者には、神様が力を与えて下さるからであり、キリストにあって赦しの心も与えられるからです。

2. 忠実に仕える主の僕
さらに持つべき真の信仰とは何かを、イエス様は次の箇所のたとえで(7-10)で語られます。ここでは主人の横暴さではなく、僕が取るべき態度が強調されています。当時の僕は主人の命令を行っても、それに対する報奨を期待できるわけではありませんでした。報いを期待せずに命令されたことを行うことにこのたとえの強調点が置かれています。
イエス様を信じ、従う者、真の信仰を持つ者は、イエス様の望んでおられることを黙々と果たそうとします。でもそうするのは、報奨を得るためではありません。僕が仕事をし終えた後、「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません。」(10)と言います。
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(新共同訳)
「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」(新改訳)
この「取るに足りない」はただの謙遜の言葉ではありません。何か果たした仕事(実績)を根拠にして、神様に報いを求めることはできない、という意味で「取るに足りない」僕なのです。パリサイ人たちは、自分の成したこと(実績や成果)を誇り、小さな弱い立場にいる人たちを見下していました。イエス様のこのたとえには、弟子たちにパリサイ人のようになってはいけない、という警告も込められています。

結 論)このときの弟子たちと同じように、私たちにとっても、人を赦すことも、報いを求めないで忠実に歩むことも本当に難しいことです。
でも、そんな私たちのためにイエス様は、十字架にかかられ、ご自身が弟子たちに命じられた通り、十字架の上でさえも「敵を愛し、迫害する者のために」祈られました。    (マタイによる福音書5章44節 p.7)そして、イエス様ご自身が、天の父なる神様の御心に従順に従われ、「主人」でありながら、「僕たち」(弟子たちのために仕えて下さいました。 (ルカによる福音書12章37節 p.110)
自分が罪ある者であり、死すべき者であることを深く知れば知るほど、このような私を愛し、死んで、よみがえって下さったイエス様のご愛と恵みをより深く覚えます。自分の中からは出てきません、愛と赦しの心もイエス様によって与えられます。そしてイエス様を信じ、従う者をイエス様が主に仕える忠実な者へと造り変え、成長させて下さいます。
愛と赦しの心の足りなさを示されるとき、その正直な感情もイエス様に打ち明けて、人を愛し、赦すこころを与えて下さい、と祈りましょう。イエス様は、私たちのありのままの思いを受け止めて、慰め、癒し、ご自分の大きな愛を私たちの心に注いで下さいます。そうして、私たちも、その人を愛し、祈る者、赦す者へと変えられていくのです。  真の信仰は、イエス様が教え、示して下さったように、全能の神様に全面的に信頼を置き、自分に頼まず、神様により頼む信仰です。