「…アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 ルカ16章31節 (p.118)
序 論)イエス様は、パリサイ人たちに、神様がすべてをご存知であること、律法の大切さを語られた(15-18節)後、さらに「金持ちとラザロのたとえ」を話されます。
このたとえから示されることは…
本 論)1.神様が助けられる
このたとえ話の前半部(19-26)は、15節のみ言葉に対応しています。「そこで彼ら(パリサイ人たち)にむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。』」(15)
衣装にこり、楽しく遊び暮らしていた金持ちが死んで葬られると、はるか遠くの「アブラハムのふところ(すぐそば)」(22)にいるラザロを見ながら黄泉(よみ)で苦しんでいます(23)。一方、その金持ちの門前で物乞いをしていたラザロは、死ぬと天使たちに連れられアブラハムのふところに導かれました(22)。
金持ちは、ラザロのことも名前も知っていました。でも地上にいるときに彼を助けようとしませんでした。黄泉にいるときでさえも「ラザロをおつかわしになって…」(24)とラザロを見下しています。パリサイ人たちは、このたとえ話を聞いて驚きました。お金をたくさん持っている者が神様に祝福された者だと思っていたからです。
このたとえの中の金持ちは、神様に頼らず、金銭に執着し、弱い立場の人たちを見下し、顧みないパリサイ人たちを示しています。金持ちは「悔い改める」(30)ことなく、神を愛し、隣人を愛すること(律法の精神)を実行しませんでした。
一方のラザロはユダヤ人にとっての信仰の父アブラハムが信じていた真の神様を信じていました。(アブラハムの生涯は創世記12~25章に記されています。)
「ラザロ」と言う名前はヘブライ語で、「神は助けた」という意味です。ラザロは、神様に心を向け(悔い改め)ていました。そのようなラザロを神様はあわれみ顧みて下さったのです。
このたとえのように神の国では、この地上での評価とはまったく違った評価がなされます。パリサイ人と「罪人」と呼ばれていた人の立場は全く反対になり、金持ちと貧しい人の生活が逆転しています。なぜなら、人は外の顔かたちを見ますが、神様は心を見られるからです。(サムエル記上16章7節 p.406)
2. 聖書のみ言葉を聞く
このたとえ話の後半部(27-31)は、17節のみ言葉に対応しています。「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。」(17) 律法の重要性を示しておられる箇所でもあります。
苦しみの中で、金持ちはアブラハムに、自分の5人の兄弟のもとにラザロを遣わして、彼らを厳しく戒めてほしいと頼みます。(27-28)。しかし、アブラハムはその願いを断ります。その理由は、彼らにはすでに「モーセ(律法)と預言者(預言書)」、すなわち私たちにとっての「旧約聖書」が与えられており、それに聞くだけで十分だからでした。(29) 旧約聖書のみ言葉を聞こうとせず、神様に心を向けない強情な彼ら(金持ちの兄弟たち)は、たとえ死からよみがえった人を目にしても、悔い改めることはありません。(30-31)「モーセと預言者」(31)や「律法と預言者」(17)という言葉は、文字に書かれた単なるおきてではありません。神様が聖書のみ言葉を通して語りかけられるのです。
私たちも、パリサイ人たちのように、自分の持っているものや立場を誇り、人を見下し、自分だけを正としてしまいやすい罪ある者です。そんな私たちを罪から救うために(アブラハムは、ラザロを地上に遣わしませんでしたが)、父なる神様は御子イエス様を地上に送って下さいました。
私たちは、使徒信条によって、信仰告白していますが、イエス様は、十字架にかかられ、陰府(よみ)に降り、三日目に復活されました。イエス様は陰府まで降って下さったのです。陰府と天国の間の淵を破るようにして、陰府から戻って来られ、復活して下さいました。もはや神様の救いは陰府(黄泉)にまで及ぶものとなりました。
結 論)イエス様は、今、神の国(天国の宴席)へと私たちを招き、導いておられる救い主です。今、私たちは、旧約聖書と共に、イエス様が救い主であることを証しする新約聖書が与えられています。両方とも私たちにとって大切であり、必要なのです。今、聖書のみ言葉を通して、神様は語りかけておられます。
聖書のみ言葉を絶えず読み、主イエスのみ心を捜し求めてまいりましょう。私たちや私自身に対する主のみ心に従う歩みを通し、神様によってさらに造り変えていただきましょう。