律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。 ルカ16章16節 (p.117)
序 論)「不正な家令(管理人)のたとえ」(1-8節)を語られ「永遠のすまい」や「真の富」を求めること、神に仕えることを第一とすることを教えられたイエス様の言葉を聞き、欲の深いパリサイ人たちはイエス様をあざ笑いました(14)。イエス様が彼らに向かって伝えようとされたことは…
本 論)1.新しい時代の始まり
パリサイ人たちの信仰によれば、神に仕える者は経済的にも祝福され、「人々の前で尊ばれる」(15)はずでした。そして彼らは律法を、自分の正しさを見せびらかすための 手段としていました。その正しさの報いとしての富に執着し、金銭第一主義に陥っていました。イエス様をあざ笑った彼らの心の中にはそういう思いが隠されていたのです。 イエス様は彼らの心に潜む貪欲を暴かれます。「神はあなたがたの心をご存じである。」(15)というみ言葉は、彼らのそういう隠された思いを神様はすべてご存じなのだということを語っておられます。私たちも、人のことを批判したりあざ笑うことによって、密かに自分の正しさを主張し、人にそれを示そうとしますが、そういう隠された策略や小細工は人に対しては通用しても、神様には通じません。神様は私たちの心の中にある本当の思いをすべてご存知なのです。
さらにイエス様は彼らに新しい時代の始まりを語られました(16)。洗礼者ヨハネは、神の国が近づいたことを告げ、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けることによって、救い主イエス様の来られる道備えをしました。(ルカ3章1-17節 p.87) その預言通り、今、イエス様が神の国の福音を告げ知らせておられました。「人々は皆」(16)と言われているように、一部の人だけ、ユダヤ人だけ、パリサイ人たちだけではなく、だれでも神の国に入ることができる、神の国が今やすべての人に開かれているのです。
神の国、神様の恵みのご支配が、主イエスによって到来している、その福音を信じ、神様に仕えて生きることによって、私たちは富(お金)に対しても主人となることができるし、それを神様のために用いることができるのです。
2. 律法の精神を本当に生かすために
律法を守っているというという自分の正しさを拠り所とすることが時代遅れというなら、もう律法などいらない、守らなくてもよいということか、と反発するパリサイ人たちに対して、イエス様は、そうではない、神様が与えて下さった律法は天地の続く限り、意味と価値を失うことはないのだと言われます(17節).そして、そのことを具体的に示すために18節のみ言葉が語られています。「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。」(18)突然、離婚についての教えが語られていることに唐突な感じを受けますが、これは神の国の福音が告げ知らされる新しい時代においても律法が意味を失うことがないことを示すために用いられている一つの具体例です。離婚についての主イエスの教えはマタイによる福音書5章31-32節にも語られています。(p.7) 「妻を出す者は離縁状を渡せ」(マタイ5:31)は申命記24章1節(旧約聖書p.280)を引用しておられます。この律法のもともとの意図は、妻を去らせながら後になって夫としての権利を主張する男性側からの気まぐれから妻を保護するために定められたものでした。しかし、時代を経るにつれて、この律法が離縁状(離婚状)を与えさえすれば合法的に離婚できると、都合の良いように解釈されるようになってしまいました。 パリサイ派の人たちは、その律法を解釈して、どういう事態ならば妻を離縁できるか、を議論していました。それは妻が姦淫の罪を犯したときだけだ、という人もいましたが、中には少しでも気に入らないことがあったら離縁できる、と言っている人もいました。しかし、主イエスはここで妻を離縁して他の女性を妻にすることは姦淫の罪を犯すことだと言っておられます。これは、律法に語られているより、ずっと厳しい教えです。しかし、これはイエス様が律法の内容を勝手に厳しく変えているということではありません。主イエスが語っておられることは、主なる神様の御心に即してこの律法を理解するならこうなるという教えなのです。
神様が結婚、夫婦という秩序を私たちに与えて下さったのは、神様が結び合わせて下さった夫と妻が一体となって神様の祝福の下で生きていくためです。それこそが神様の御心です。律法の中で離縁について語られているのは、人間の罪のゆえにどうしてもその夫婦としての関係が維持できなくなってしまう場合のためであって、この律法は、「どんな場合なら離縁できるか」という議論をあれこれとすべきものではありません。「妻を離縁して他の女性を妻にする」などということを考えることが、そもそも神様の願いに反することだとイエス様は言っておられるのです。(マルコによる福音書10章1-12節 p.68 参照)
結 論)今回の箇所にも示されているように、パリサイ人たちは律法を字面で捉えてそれを守ろうとしていました。それは彼らが律法を、自分の正しさを見せびらかす手段としていたからです。しかし、イエス様は、そのようなことから自由に、律法の本当の精神(神を愛し、隣人を愛する。愛の教え)をくみ取り、それを生かそうとしておられたのです。 このようなパリサイ人たちや私たちの中の「かたくなな心」は人間の罪の表れでもあります。このような自分ではどうすることもできない罪の中にいた私たちを救うためにイエス様は十字架にかかり復活して下さいました。
今、私たちは、イエス様とイエス様を送って下さった父なる神様のあわれみによって、罪赦され、生かされています。主イエスによって神の国の福音がもたらされ、福音が宣べ伝えられている時代に生かされている恵みを覚え、イエス様の愛を内にいただき、神様のあわれみにより頼みつつ福音を証ししてまいりましょう。