ルカによる福音書8章26~39節

イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう。」    ヨハネ13章7節 (p.163)

序 論)わたしたちは神様がわからず、神様のされることに疑問や不満を持ちやすい者です。今日の登場人物は、悪霊に支配され、イエス様を遠ざけようとしていました。しかし自由にされたとき、新しい生き方が開かれたのです。

本 論)

1.きびしさとやさしさ
悪霊から解放された男は、イエス様のお供をしたいと願い出ました。「収穫は多いが、働き人が少ない」(10:2)と言われるイエス様ですが、ここでは「家に帰りなさい」と断られます。現代はマイホーム主義ですが、古代の「家」は村落や共同体との関わりの中にあります。悪霊から救われたのに、村の人は喜ぶどころか恐れました(35)。村に帰っても仕事があるか、結婚できるか、「あれは悪霊にとりつかれていた男だ」と、生涯ささやかれます。いっそイエス様に従っていきたいというのは、彼の切実な願いでした。
私たちも、神様に願い求めたことで、自分の欲ではなく神様のためになると思っていたのに、答がなかったり、別の道に導かれることがあります。神様は時にきびしいお方に思われます。しかし、後になってさらに大きなやさしさに気づくのです。
もしこのゲラサの男がイエス様の弟子に仲間入りしたらどうなったでしょうか。他の弟子はみなユダヤ人です。誰が偉いかとまだ争うような弟子たちに、異邦人を受け入れることができたでしょうか。すでにイエス様は取税人や罪人の仲間だと非難されていました。そこに異邦人まで入っていたら、イエス様のお働きはせばめられたでしょう。
もちろん、イエス様は取税人も異邦人も区別も差別もされません。みな愛する者であり、救われるべき魂です。ただ、教会が聖霊によって一つにされ、異邦人に大々的に福音が宣べ伝えられるときは、まだきていなかったのです。
イエス様はきびしさとやさしさをもって、「帰りなさい」と言われるだけでなく、使命を与えられました。

2. 神の国に生きる
自分の生まれ育ったところで、神様の恵みを証しするのは難しいことです。イエス様でさえ故郷のナザレでは受け入れられませんでした。しかし、彼はイエス様の言葉に従い、自分の経験を言い広めました。
先には悪霊に支配されて、自分でどこに行くのか、何をするのか自由にならなかった男です。自由になった今、イエス様に心を治めていただく道を彼は選びました。これがイエス・キリストを救い主と信じ、人生の主として従う、ほんとうの弟子の姿です。
悪霊に支配された姿は恐ろしいほどです。どうしてこんな目にあうのかと、自分も家族も苦しんだことでしょう。しかし永遠の初めから永遠の終りまで治めておられる主は、すべてをご存知です。
他の箇所で、生まれつきの盲人を見た弟子たちがその理由を尋ねたとき、主イエスは「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)と答えておられます。イエス様の救いは「どろなわ」ではありません。神の国は私たちが救われてから建てられるのではありません。すでに神の国は存在し、私たちに近づき、招いているのです。
この箇所は一つの極端な例ですが、聖書は、救いを持たないすべての人は、先祖伝来の習わしやこの世の常識、悪い習慣に捕えられて自由を失い、しかも不自由に慣れっこになってしまっていると指摘しています。
私たちが生れながら重荷を負うこと、人生で思いがけない試錬に会うこと、それは「神の栄光が現われるため」と信じるときに、心に希望が生れてきます。世を恨み人をねたむ心から、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者に変えられていきます。そこに神の国が現われていくのです。

3. 神の国の拡大
やがてイエス様は十字架につけられ、葬られます。しかし三日目に復活され、天に昇られました。そしてご自分に代わる助け主である聖霊を、弟子たちに送られました。弟子たちは聖霊に教えられ、力づけられて、全世界にキリストの救いを宣べ伝えていきます。
弟子たちが足を進める中に、すでに福音の耕しや種まきがなされている地がありました。今日のゲラサや、サマリヤ、ツロとシドンの地方などです。そこでは、すでにイエス様に出会い、救われた人たちが、「自分にイエスがして下さったこと」を言い広めていたのです。
私たちが日々御言葉に養われ、祈り賛美し、教会に集まって礼拝する歩みは、やがて神様の時の中で恵みが現れ、広がっていくのです。

結 論)
「神がわたしにどんなに大きなことをしてくださったか」、罪と永遠の滅びからの救いがあり、人生の試錬を越えられたことや、もつれた人間関係が祝福に変えられたことなど、ひとりひとりにイエス様がして下さった恵みを感謝し、わかちあって、主の弟子として、神の国の民として共に歩んでいきましょう。