なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
Ⅱコリント5章14-15節 (p.283)
序 論)この章では、パウロは使徒という立場ではなく、一人のキリスト者として、コリント教会の信徒に語りかけています。死を恐れずに宣教するパウロたちの姿勢は、コリントの人たちにとっては「正気でない」と見られたかもしれません。パウロが伝えようとしたことは…
本 論)1.キリストの愛に動かされる者
人の目には「気が狂っている」と映っても(13)、「キリストの愛が強く迫っている」から(14)、パウロは宣教を続けます。主イエスは、「すべての人のために死なれた」ことによって、愛を示されました。キリストがすべての人に代わって死なれたことにより、すべての者は罪に対して死にました(14)。
しかし、キリストが死なれたのは「生きている者が、もはや自分のためにではなく」、自分のために死んで復活されたお方、キリストのために生きるためです(15)。 パウロの神への熱心と人への奉仕は、このキリストの愛に動かされたゆえでした。
キリストの愛が「強く迫っている」(14)は、「私たちを取り囲んでいる」(新改訳聖書)、「私たちを駆り立てている」(新共同訳聖書)とも訳されています。
私たちは神の前に罪ある者です。自分の力で自分の犯している罪を償うことはできません。イエス様は私たちの罪を担って十字架で死なれ、復活されました。パウロにとっては、生きることは、キリストのために生きること以外にはありませんでした。
私たちにも、同じキリストの愛が今も迫っているし、その愛に取り囲まれているのです。
2. 和解の福音の使者
パウロは「今後、だれをも肉によって知ることはすまい。」(16)と語ります。この「今後」は、私の生きることの意味を大きく変えた出来事、イエス様の死と復活のみわざがこの私のためであったと分かったこれからは、という意味が込められています。「肉によって」は「人間的な標準で」(新改訳)、「外的条件によって」という意味です。
神様が、イエス・キリストを通して成して下さった救いのみわざが成された「今」は、「肉による」(神様との関わりを持たず自己中心的な)生き方から解放され、神からの霊(聖霊)によって新しく生きる者とされました。パウロは、今、目の前に現れた救いの現実を「新しい」と呼びます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(17)
キリストが地上に来られたことにより、罪が支配する古い時代は終わり、やがては新天新地が出現する新しい時代が始まりました。キリストを信じることによって、このお方と結ばれるとき、私たちは新しい時代に属する「新しく造られた者」となるのです。
人間が神様から離れ、罪ある存在となったために、神様と人間の関係は「敵対関係」になってしまいました。今や、神様は、主イエスの十字架の死によって人の罪を赦し、人と和解されました。パウロは、主によってこの和解の福音を委ねられたのです(18)。
パウロはキリストの使者(主から遣わされた者)です。パウロを通して、コリント教会の人々に「神の和解を受けなさい。」と呼びかけました(20)。
この世の人々は、神様を知らず、神の律法に違反し、神様に敵対する中で生活しています。神様はそんな罪の中にある人たちをもご自分と和解させるために、私たちキリスト者を用いたいと願っておられるのです。
結 論)私たちもかつては、神様の御心に反することばかりを行っていました。神様から罰を受けて当然の者でした。しかし、神様は、罪なきお方イエス様に、すべての人の罪の罰を負わせて、十字架にかけられました。そして私たちを義として下さいました。
今は、主イエスのゆえに神と和解し、神の国(天の御国)に入る望みを持つ者とされたのです。そして、キリストの大きな愛に取り囲まれて生きています。私たちはイエス様の御名を通して、神様に「父なる神様、…」呼びかけ、祈ることできます。そして、神様との交わりの中で、永遠の命と祝福の中に生かされて生きるのです。
私たちも、神様との和解をいただいた恵みを覚え、キリストの使者として、和解の務めを果たさせていただきましょう。