ルカによる福音書15章11~32節

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』。       ルカ15章31-32節 (p.116)

序 論)イエス様はご自分を批判した宗教指導者たちに対して三つのたとえ話で応えられました(15章3-32節)。「憐れみ深い父のたとえ(放蕩息子のたとえ)」の後半、「兄息子の話」を通して、伝えようとされたことは…

本 論)1.父の愛の心から遠くにいた兄息子
  弟息子(放蕩息子)が帰って来てすぐ、父親は喜んで祝宴を始めました(24)。そこに兄息子が畑から帰って来ました。兄は、音楽や踊りの音が聞こえたので、「これは何ごとなのか」としもべに尋ねます。兄は弟が帰って来て、父が宴会を開いていると知り、ふてくされてしまいました。怒って家の中に入ろうとしない兄を父がなだめます(28)。
しかし、兄は父に不満と批判の言葉を語ります(29-30節)。「わたしは何か年もあなたに仕えて」(29)の「仕える」は原文では「奴隷として仕える」という意味の言葉が使われています。自分は「子ども」ではなく、「しもべ」のように忠実に仕えてきました、長年の間、わたしはあなたの「奴隷」のようなものでした、というような言い方です。  「子やぎ一匹」は「肥えた子牛」に比べはるかに安いのにそれすらくれなかった、と父親をなじります(29)。そして彼は弟を「私の弟」と呼ばず、「このあなたの子」(30)と言っています。彼の言葉から、父親への感謝と尊敬の思いが欠けていることが分かります。彼にとって、父との絆は、愛と信頼ではなく「仕える」ことと「言いつけ」を守ることでした。(兄の姿は、今まで「戒め」に一度もそむいたことがないと自負しているパリサイ人たちと重なる。)
弟息子は、お父さんのもとから遠く離れて行きました。けれども、彼は父を求め、父のもとに立ち返りました。逆に、兄息子は、いつも父親と一緒にいたのですが、心は弟よりはるかに遠く父から離れていました。兄もまた「失われた(死んでいた)息子」であったのです。
父は兄に対しても「子よ」と呼びかけます。どのような態度をとろうとも父にとって兄もまた「子ども」でした。「奴隷」でも「しもべ」でもなく愛する「息子」です。父は兄をとがめることなく「いつもわたしと一緒にいる」ことの幸いに気づかせようとします。そして、全財産はすべてお前のものだ、と告げます。父は、弟と同じように彼を愛してこう言いますが、兄には父の愛が分かりませんでした(31)。
兄は弟を「このあなたの息子」と呼びましたが、父は「このあなたの弟」と呼びます。そして「…、喜び祝うのはあたりまえである」と言います(32)。

2. 憐れみ深い父なる神は主イエスを通して招かれる
この後、兄は、家の中に入り、祝宴に加わったでしょうか。このたとえでは、それは語られていません。イエス様は、このたとえを通して、「兄息子」である、「パリサイ人や律法学者」に父なる神の憐れみと悔い改めた人を迎えて下さる喜びを伝え、彼らをも「祝宴」に招こうとされたのです。恵み深い父なる神は、彼らに対してさえも、悔い改めて弟息子のようにご自分のもとに帰って来ることを願っておられたのです。
しかし、実際は、宗教指導者たちは、イエス様の招きに応じず、それどころかそれに反抗し、ねたみ、怒り、イエス様を十字架にまで追いやってしまいました。
しかし、十字架で死なれたイエス様は、復活され、裏切り逃げていった弟子たちを訪ねていかれ、もう一度呼び集められ、彼らを遣わし、すべての人を再び招かれました。  今も、父なる神様はイエス様を通して、すべての人を「祝宴」(神の国、そしてそのひながたである教会)に招いておられます。

結 論)「放蕩息子のたとえ」は「放蕩息子の兄のたとえ」でもあります。そして「憐れみ深い父のたとえ」なのです。カトリックの司祭ヘンリー・ナウエン(1932-1996)はサンクトぺテルブルクのエルミタージュ美術館にあるレンブラントが描いた「放蕩息子の帰還」の絵を何時間も見、自分を父親、弟息子、兄息子の立場において黙想しました。そして神の憐れみと愛に触れ、その体験を『放蕩息子の帰郷』という本に記しています。
私たちは兄や弟のように神から遠く離れていた罪ある者でしたが、主の十字架と復活により罪赦され、父なる神に迎え入れられた者です。
さらに、ナウエンは、私たちはいつまでも、ただ「兄」や「弟」の立場に留まっているべきではない、「霊的父性」を持たなければならない、と言っています。
「霊的父性」とは、「神の愛」、「キリストの愛」のことです。聖書のみ言葉と聖霊によって神の愛、キリストの愛を内にいただいている私たちは、神を愛し、私たちにとっての「兄や弟」(隣人)を愛する者へと造り変えられていくのです。