そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 ルカ15章20節 (p.115)
序 論)取税人や罪人たちと食事をしていたイエス様を宗教指導者たちが非難しました。イエス様は、三つのたとえ話しによって彼らに応えられます。三つ目の「放蕩息子のたとえ」を通して示されることは…
本 論)1.弟息子の失敗と改心
弟息子は父親の生きている間にむりやり遺産をもらいました。(12)(申命記21章17節p.276 参照) そして弟は「自分のものを全部とりまとめて」遠い所へ行きました。しかし、そこで欲望のままに財産を湯水のように使い、それを失ってしまいました(13)。お金がなくなると共に楽しみは消え、彼の友も彼から離れていきます。それに追い打ちをかけるように予期しなかった「大ききん」が起こります。(14)
すっかり一文なしになった彼が身を寄せた「その地方のある住人」(15)は異邦人でした。「豚(ぶた)」は当時のユダヤ人が最も忌み嫌った動物で、不浄なものとみなされていました。(レビ記11章7節参照) 彼はユダヤの良家の息子なら決してしないはずの仕事(豚の世話)をする羽目になりました。そして、豚のえさ(いなご豆)でもよいから食べたいと思うほどの状態になっても誰も助けてくれませんでした(16)。
そのとき、彼は「本心に立ち返り」(「我に返って」)ました(17)。そして、帰るべきは「父のところ」だと気づきます。彼はお父さんと離れてしまって落ちるところまで落ちてしまってはじめて、お父さんの恵みと力がどんなに大きかったかがわかって、本心に立ち返ったのです。
「立って」、「こう言おう」は、彼の悔い改めの気持ちが表われています。(18) 19節は自分の現状を認めるへりくだりの言葉です。「あなたの子」として甘えるのではなく、「雇人のひとり」として父のために働こうと決心しました。
父のもとを離れ「遠い所」、「その地方」に行った息子は、父なる神様のもとから離れてしまった人間、「神様抜きの人生」を送って行き詰まったり、絶望してしまう人間の姿を示しています。でも、「いなご豆」(どん底の絶望状態の象徴)から目を上げて、父なる神を仰ぎ、心を向けることを神様は待っておられます。
2. 子のもとに走り寄り、迎える父
弟息子は決意を実行に移すため、「立って」、「父のところへ出かけ」ました。ここの箇所は「悔い改め」とは神のもとに帰ることであることが示されています。そして、父親は息子が出て行ったその日から、一日千秋の思いで息子が帰って来るのを待っていたのです。ボロボロの変わり果てた姿になった息子が遠くからやって来るのを見て父は「哀れに思い」(「かわいそうに思い」)、走り寄り、抱きしめました。
父なる神様は、私たち人間が(たとえそれがわずかな悔い改めであっても、それがそのときできる精一杯の思いで)悔い改めてご自分のもとに立ち返ることを待っておられ、帰ってくることができるようにいろいろな形で働きかけておられます。そして帰ってきた者を喜んで迎えてくださるのです。
息子は用意した言葉(18-19節)を言おうとしますが、父親は最後まで言わせません。(21)。そして、家へ連れ帰って、一番良い着物、指輪、くつを身に着けさせました。これは、父が息子を最愛の子として扱っていることを意味していました。(当時、奴隷やしもべは靴(サンダル)を履きませんでした。)
続いて父は「祝宴」(24)を開きます。「肥えた子牛」(23)は特別なもてなし用に飼育されていたものでした。これは祝宴の正大さを物語っています。
「この息子(原文では「私の息子」)は死んでいたのに…」(24)。父親から見れば、自分の息子は「失われ」「死んだ」も同然の状態でした。しかし、「生き返った」(父のもとに戻ってきた)のです。祝宴とこの言葉に父親の大きな喜びが表われています。
結 論)この「放蕩息子のたとえ」(あわれみ深い父のたとえ)」に示される、父なる神の人間に対するあわれみと無条件の赦しの背後に、主イエスの十字架で流された血潮があります。「走り寄る父」の姿は、私たちのために天から地に降って下さったイエス・キリストの御姿と重なります。
私たちは、神様の目から見れば、本来の位置を離れ、「死んだ」状態にあったものでした。しかし、私たちの罪の罰を身代わりに十字架の上で受けて下さったイエス様のご愛と赦しがあるがゆえに、私たちは、イエス様を知り、信じることによって、罪赦され、「生き返って」父なる神様のもとに立ち返ることができるのです。
そして、父なる神様は、イエス様を信じた私たちを「神の子」として大きな喜びを持って迎え入れ、受け入れて下さるのです。