そして、見つけたなら、女ともだちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 ルカ15章9節 (p.115)
序 論)イエス様のもとに取税人や「罪人」と呼ばれていた人たちが、やって来ました。主イエスが彼らと一緒に食事をしていたことをパリサイ人たちは非難しました。主イエスは「いなくなった一匹の羊のたとえ」に続き二つ目のたとえ話をして、パリサイ人たちに答えられます。「なくした銀貨のたとえ」が示していることは…
本 論)
1 一人ひとりを捜し求めておられる神の熱心
当時、使われていた「銀貨」1枚は一日の労働に対する報酬額に相当しました。当時の習慣では、女性が結婚するとき、持参する自分の財産の一つとして、貨幣を首飾りのようにつないで、自分の身につけていたそうです。この女性が銀貨10枚を持っていたのもそのためだったのでしょう。
あるとき、つないでいた糸がほころびて、1枚の銀貨が床に落ちて、なくなってしまいました。当時の家は、窓が小さく、昼間でも暗かったこともあり、彼女は「あかりをつけて家中を掃き」(8)それを捜しました。
ここでは、神様が「ある女」、神様のもとから離れてしまった人が「なくした銀貨」にたとえられています。神様から離れてしまった人は、神様から見ると「失われた者」 となってしまいました。なくなった銀貨1枚を、女性が「見つけるまで」、「注意深く捜す」(8)(「念入りに捜す」(新共同訳、新改訳))ように、神様は私たち一人ひとりを熱心に捜し求めて下さいました。
この女性にとって、この銀貨1枚が尊いように、神様の目から私たちは一人ひとりかけがえのない尊い存在なのです。「万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ書9章6節 p.954)と預言者イザヤが語っているように、神様は熱い心、熱愛をもって罪人を愛され、私たちを罪から救うため御子イエス様を地上に遣わして下さいました。
2 「ひとり」を見出した神の喜び
この女性がなくした銀貨を見つけたとき、友達や近所の女の人たちを呼び集めて、喜びを共にしてください、と語りかけました(9)。「1枚の銀貨」は「本来あるべきところ」から、床に落ちてしまいました。この女性がそれを見出し、本来あるべきところに帰ったとき、彼女と周りの人々は大いに喜びました。
彼女が、銀貨を見つけて自分のもとに戻ってきたときに感じた喜びは、神様が、一人の罪人が、悔い改めてご自分のもとに帰ってきたことを喜ばれることを示しています。私たちも、神のもとから離れて罪の中に陥っていた者でしたが、イエス様を知り、神の御子、救い主と信じ、心に受け入れることによって、罪赦されました。そして、イエス様を通して父なる神様のもとに立ち返りました。そしてその喜びは、地上にいる人たちのものだけでなく、「神の御使いたちの前」(「天」)でもわき起こるのだと言われます(10)。私たちが罪から救われたことを神様も御使いも天において大いに喜んでおられるのです。
イエス様を信じ、受け入れた人の内に、主イエスは聖霊によって住んで下さいます。御子イエス様の霊をいただいて、私たちは、神様に「天の父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(ガラテヤ人への手紙4章6節 p.296)
結 論)この女性のつけた「あかり」を神の言葉、聖書の言葉とする解釈があります。 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節 p.859)「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇119篇130節 p.860)
聖霊は、み言葉と共に働かれて、人々にイエス様のことを知らせ、神の御子、救い主であることを証し、信じる者とへと変えて下さいます。今も、父なる神様、御子イエス様、聖霊はひとりひとりを捜し求め、信じる者とされるよう、共に働きかけておられるのです。 先に神様に見出され、主イエスを信じる者とされた恵みを覚え、ひとりでも多くの人がイエス様を信じ、救われるよう、天における喜びを共にできますよう、祈り、主と教会、周りの人たちに仕えさせていただきましょう。