自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。 ルカ14章25-35節 (p.115)
序 論)イエス様は、ご自分についてきた大勢の群衆に向って語られます。
そして、主の弟子として求められることは・・・
本 論)
1.主を愛すること
26節のみ言葉は厳しい言葉ですが、「捨てる」という言葉を吟味する必要があります。新改訳聖書では「憎む」と訳されています。元の言葉は、「愛する」という言葉と対比させて「より少なく愛する」の意味で使われています。家族や周りの人たちを愛することは、もちろん大切です。でも、ここではイエス様を誰よりも愛し、従うことを求めておられます。
ここで、イエス様は、本当の意味で親子の関係、あるいは夫と妻との関係に生きようとするならば、まず神を第一とする「聖別」が必要であると仰っています。神様が家族の絆の中にいて下さるならば、この神様は私たちをお救い下さった方、造り変えて下さっているお方ですから、親と子の関係も、夫と妻の関係も祝福を受けることができます。
それは家族の絆を捨てることではなく、イエス様との関係を第一として聖別されることなのです。
そして、イエス様は、十字架を負うてご自身に従うようにと言われます(27)。私にとっての「十字架」はそれぞれが人生の歩みの中で与えられている、苦しみや痛み、悩みのことです。私たち自身が、痛みを負いつつ神様に従うようにと言われます。
神様は、私たち人類が神様から離れて永遠の滅亡に行くことに心を痛めておられました。それで父なる神様は御子イエス様を地上に送られました。主イエスの十字架の死によって私たちは罪から救われました。ご自身の御子を犠牲とされるという神様にとっての最大の痛みを通して救いのわざがなされたのです。
私たちの周囲には、いろいろな痛みやそれぞれの十字架を負っている人がたくさんおられます。キリストを信じ、従うことを通して、そのような人の痛みに共感できる人になることが、キリストの弟子になることなのです。私たちの痛みを共に負って下さる、イエス様と一緒に、他の人の痛みを思い、祈り、その人に対して自分ができることをさせていただきましょう。
2. まず座して祈ること
28~32節で、イエス様は二つのたとえ話をしておられます。一つは家を建てるときは予算をちゃんと組んで、きちんと計算しなければ、土台だけしか作れなくて笑われてしまうだろうというお話です。もう一つは戦争で敵を打ち破ろうとするときには、敵の兵力がどれくらいかをよく計算しなければ勝てないと言われました。
どちらのたとえも、神の国に入る、イエス様の弟子になるには、何かの犠牲を払うことなしにはできないということです。家を建てるには大きな費用がかかります。犠牲を払わないと家は建ちません。戦争に勝つにも、よく準備して臨まなければ敵に勝てません。 またどちらのたとえにも「まず座して…考え(計算する)ないだろうか」(28,31節)と言われています。「まず座して考える」は、「まず祈ること」、「時間をかけて真剣に祈ること」という意味も含まれています。 祈り、聖書のみ言葉を黙想し、主に従う歩みをしていく中で、イエス様が測り知れないほどの愛のお方であり、自分の人生のすべてをかけても余りあるほど素晴らしいお方であるかがだんだんと分かってくるのです。そしてそのご愛に応答し、主を愛する愛も増し加わっていきます。
次の「…自分の財産をことごとく捨て切る…」も、「それを生活の中心にするほど執着してはならない」という意味で、持ち物に対する聖別ということです。神様は「富を持ってはいけない」とは仰いません。むしろ、本当の意味で、神様第一として従っていくならば、神様は必要なものの一切を私たちに備えて下さいます。主イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタイによる福音書6章33節 p.9)と言われます。
結 論)イエス様を信じ、愛し、従っていく者の内にイエス様が住んで下さって、
主のみ心、願いを実現することができるように助け導いて下さいます。
そして、主イエスは、ご自分の弟子は、多くの人々の中にあって人々の中にあって塩のような役目を果たすのだと言われました。(35)塩は物が腐敗するのを防ぐ役目をします。また食物に良い味を付けます。イエス様は「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節 p.6) と仰っています。この世にあっても、罪に染まらず、きよい生活をして、よい影響を与えていく使命がキリストの弟子に与えられています。
私たちは力なく、小さな者ですが、「私は聖霊の力をいただいて主を愛し従います。主よ、お助け下さい」と祈りながら、主に委ね、主の弟子としての道を歩み続けてまいりましょう。