そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。…」
ルカ14章16-17節 (p.114)
序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。主イエスはその家にいたパリサイ人たちに「神の国」について語られます。神の国にふさわしい者、終わりの日の神からの報いについて教えられた後、さらに語られたたとえ話の意味することは…
本 論)
1 招きを断る人、招きにあずかる人
「列席者のひとり」(15)(パリサイ人)は「正しい人の復活の際」(14)には、自分たちこそ神の国の食事に招かれるのにふさわしい者だと思っていました。彼の言葉を聞いてイエス様が三つ目のたとえ話をされます。(15-24節) 当時のユダヤでは晩餐会の正式な招待は2度に分けてなされていました。1度目の招待(16)を受けた人が「晩餐の時刻になった」(17)ときになされる2度目の招待を断ることは非常に無礼なことと見なされていました。
けれども、「最初の人」(18)と「ほかの人」(19)は、買った土地や牛のことを理由として断りました。3人目の人は「新婚生活」を理由に断りました。ここでの「断る」は 「口実を設ける、言い訳をする」という意味です。(彼らの断りの理由はつじつまが合っていません。「土地」は買う前に見に行くものです。まして買ったなら宴会後にでも見に行けます。2人目、3人目の人たちも宴会に行こうと思えば行くことができました。) 以上の事を「僕(しもべ)」から報告された「主人」は怒りました(21)。晩餐会の開催時刻が迫っているので「いますぐに」(21)他の人々が招かれました。彼らは「町の大通りや小道」(晩餐会の開かれる家の近く)にいました。
まだ席があったので、主人はさらに手当たり次第に人を連れてきて「家」をいっぱいにしなさいと命じます(23)。「道」(23)はこの場合、町の外にある道です。「垣根」は 郊外の農園の「垣根」です。家から遠く離れた場所にいる人々を呼ぶようにと言われています。「無理やりに」は、「力づくでも」という意味ではなく、「説得して、強いて願って」という意味です。
このたとえ話で言われた「主人」は「神様」、「しもべ」は「イエス様」のことです。最初は招かれていたのに招きを断った人たちは、パリサイ人、律法学者たちのことです。彼らは、自分たちが「義人」であると自負していたので、神の御子であるイエス様を救い主と信じることができず(招きに応じず)、イエス様の命を奪おうと企みました。
彼らは自分の罪を認めることができず、神の前に自分を低くすること(へりくだること)ができませんでした(11)。彼らは神様から招かれていたのに、「わたしの晩餐」(主の 晩餐)にあずかることができなかったのです(24)。
2 主イエスの招き
家の近くで招かれた人たち(22)は、イエス様の弟子たちを意味しています。家の遠くで招かれた人たちは、後にイエス様を信じる「異邦人クリスチャン」を意味しています。 当時、神様の祝福から遠いところにいると思われていた人たち(22)がかえって先に主イエスの救いの恵みにあずかりました。彼らは、イエス様の招きに素直に応じ、自分が罪あることを認めてイエス様を信じ受け入れた人たちです。神様から選ばれたユダヤ民族とは違い、「異邦人」(ユダヤ人以外の世界中の人たち)は、神様の祝福から遠いところにいると思われていました。しかし、イエス様の十字架の死と復活、その後のペンテコステ以降、イエス様を信じることによって罪から救われる時代(聖霊の時代)が到来しました。イエス様を信じ、従う人たちが世界中から起こされてきました。今、私たちもイエス様から招かれ、主の救いの恵みにあずかっています。
結 論)「わたしの晩餐」(24)は「神の国の食事」(15)のことであり、教会は「神の国」、礼拝や聖餐は御国での「主の晩餐」、「神の国の食事」の雛型(ひながた)です。 イエス様を信じ、共に礼拝する私たちは、天の御国での礼拝と主との交わりを待ち望みつつ歩みます。
私たちもかつては神様から遠い「罪人」であり「異邦人」でした。このたとえ話の中の貧しい者、垣根の外にいた者と言えます。そんな私たちをイエス様は神の国の食事(主の晩餐)に招き入れて下さいました。そして豊かな恵みを今も与えて下さっています。
17節の文語訳「来たれ、既に備(そなわ)りたり。」はかつて教会の聖餐式の際に読まれていたみ言葉でした。
イエス様は、今もすべての人を神の国に招いて下さっています。そしてご自分のもとに引き寄せ続けて下さっています。先に主の晩餐の恵みにあずかり主の僕とされている私たちが、新しく来られる方々を招き、お迎えしましょう。