またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」 彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい。」
ヨハネ21章16節 (p.178)
序 論)テべリヤ(ガリラヤ)湖の岸辺で、朝の食事の後、イエス様は、ペテロに三度にわたって質問をされます。主の問いとペテロに命じられたことは…
本 論)
1 ご自身への愛を問われる
イエス様はペテロに三度「わたしを愛するか」と質問されました(15,16,17節)。 「この人たちが愛する以上に」(15)は、「他の弟子たちがわたし(イエス様)を愛する以上に」という意味です。
三度目にイエス様から問われたとき、ペテロは「心をいためて(新共同訳では「悲しくなって」)」(17節)とあります。この時のペテロは、自分の過去の失敗を思い起こして悲しくなってしまったのでしょう。
ペテロはかつては他の弟子たちより自分は偉い者だと思っていました。そして最後の晩餐の席上でイエス様のためには命を捨てることもいといません、と断言しました。 (ヨハネ13章37節 p.164)
しかし、イエス様が予告された通り、彼は三度イエス様を知らない、と否定してしまいました。 (ヨハネ18章17節、25-27節p.172)
けれどもここで、主イエスから、問われたペテロは、もう他の弟子たちと自分を比べて答えることはしていません。
彼は弟子たちのことについては一言も触れず、ただ「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と控えめに答えました。
三度にわたる主の繰り返しの問いに、「主よ、あなたはすべてをご存じです。」(17)と述べて、すべてをご存知であるイエス様に一切を委ねました。
イエス様とペテロの間のこれらのやり取りは、イエス様のペテロに対しての特別な取り扱いを示しています。主は失敗し、悩み苦しんでいたペテロをいやし、新たに立ち直らせ、弟子たちの中での真のリーダーとしての立場を回復させて下さったのです。
2 ご自分の羊を飼うように命じられた
ペテロの答えを聞いてイエス様はペテロにご自分の羊を委ねられました。(15,16,17節) かつてイエス様は、ペテロに「今からあなたは人間をとる漁師(福音を伝え、イエス様を証しする伝道者)になるのだ」(ルカによる福音書5章10節 p.91)と言われましたが、ここでは、羊を養う「羊飼い(牧者)」としての使命を果たすことを命じておられます。 「羊」は、弟子たちを通して福音を聞き、イエス様を信じて「キリスト者(クリスチャン)」になったばかりの人たち、霊的にまだ幼い人たちのことです。
そして「わたし(イエス様)の羊を飼う」とは、そのような人たちがキリストの弟子として霊的に成長するように愛をもって指導することです。
キリスト者の愛は、キリストにある最も小さい兄弟に仕えることによって示されます。その愛は、キリストの愛をいただき、キリストを愛することから生まれてきます。 この後のペテロは、イエス様を愛し、他の弟子たちを愛して、キリストの弟子としての生涯を全うします。
後に書いた「ペテロの第一、第二の手紙」を通しても、ペテロの他の弟子たち、幼い兄弟たちへの配慮と愛が感じられます。「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」 (ペテロ第一の手紙2章2節 p.367)
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛(アガペー)を加えなさい。」 (ペテロ第二の手紙1章5-6節 p.372)
結 論) かつてイエス様は最後の晩餐のとき、「人がその友のため自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」と言われました。 (ヨハネ15章13節 p.167)
ここでの「愛」は「アガペー」、神の愛を表す言葉が使われています。友を愛する愛は、ご自分の命を捨てるアガペーの愛だと言われます。さらにこの直後の箇所でイエス様が弟子たちのことを「友」と呼ばれました。イエス様にとって弟子たちは命を捨ててまで愛する友であり、アガペーの愛が注がれる友です。そのような愛でイエス様はペテロや弟子たちやすべての人を愛されました。
そして、主はペテロにご自身を愛しますか、と問われました。ペテロはその問いに答え、主のご愛によって立ち直り、新たな出発をしたのです。
1982年にマザーテレサが来日したとき東京での講演で次のように語られました。 「聖書には、イエス・キリストが世に来られたのは、神は愛であり、わたしを、そしてあなたを愛しておられるという福音をもたらすためだと記されています。…では、どのようにしてこの愛をお互いに伝え合えるのでしょうか。 イエスは十字架上で亡くなりました。そして「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」と言われました。 ですからそのように愛さなければなりません。愛はどこから始まるのでしょう。…家庭です。」
彼女は「家庭」という言葉を頻繁に用いられたそうですがこれは「自分の家族」というだけでなく、私たちの今、生きている場所、地域、周りの共に生きている人たちという意味で使っておられます。そして、隣人愛の大切さを伝え、その根源に神の愛があることを伝えておられます。マザー・テレサは、隣人愛に生きました。しかしそれ以上に、神を愛し、主イエスを愛した人です。「わたしを愛しますか。」という主イエスの問いかけに、真摯に向き合った人です。
イエス様は、今も、私たち一人ひとりに「わたしを愛しますか。」と問われています。主のご愛に、ペテロのように応答し、たとえ小さな歩みであったとしても、すべてをご存知である主に委ね、主を愛し、人を愛する歩みを全うさせていただきましょう。