ヨハネによる福音書21章1~14節

 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。             ヨハネ21章4-5節 (p.177)

序 論)エルサレムでイエス様は、復活された御姿を弟子たちに二度、顕されました。その後、彼らは、故郷のガリラヤに帰っていました。イエス様が、彼らに対してなされたことは…

本 論)

1 ご自身のみ姿を新たに顕された
弟子たちの内7人はペテロに引き連れられて漁に出かけました。テべリヤ湖(ガリラヤ湖)で一晩中働いても何の収穫もありませんでした。夜明けに岸辺に立たれたイエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか。」(「食べる物がありませんね。」新改訳)(5)と尋ねられました。彼らが「ありません。」と答えると主イエスは「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」と岸から声をかけられました。彼らが主イエスのお言葉に従ったとき、大漁となりました(6)。この素晴らしい大漁の経験は、ペテロたちに以前経験した同じような出来事を思い出させたに違いありません。(ルカによる福音書5章1-11節 p.91)
このときから約3年前、イエス様はペテロに「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5章10節)と言われ、いっさいを捨てて、イエス様に従いました。復活された主イエスは、ここでペテロや弟子たちに新たに使命を与えようとしておられたのです。  彼らの目は、いっせいに岸辺に立っている人物の方に注がれました。朝もやの中で、最初にその人がイエス様であることが分かったのは「イエスの愛しておられた弟子」(7)
だったのです。  そして、岸辺に立っておられる人が「主であると聞いて」ペテロは一刻も早く主イエスに近づきたいと「裸になっていたため、上着をまとって海にとびこみ」ました(7)。
彼は前の大漁のときにも、真っ先にイエス様の足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」と言いました(ルカ5章8節)。ペテロは岸に向かって泳ぎましたが、他の弟子たちは小舟に乗ったまま、「魚のはいった網を引きながら」(8)陸地までやってきました(8)。(「50間」は約100m)
弟子たちは自分の力だけで魚を獲ろうとしても一匹も獲ることができませんでした。しかし、「舟の右の方に網をおろしてみなさい」と言われる、主イエスのみ言葉に従ったとき、大漁となりました。「舟の右側」は主イエスが新たに示される場所であり、道です。私たちも、自分の力では何もできない弱く無力な者だと認め、主イエスに信頼し、み言葉に従うとき、イエス様は私たちに道を示され、私たちを通して、みわざを成して下さいます。

2 朝の食事を備えておられた
弟子たちが陸地に上がると、そこに炭火がおこしてあり、彼らは「その上に魚がのせてあり、またそこにパンが」あるのを見ました(9)。このように復活されたイエス様は、弟子たちのためにパンと魚の食事を用意し「さあ、朝の食事をしなさい」と彼らを招いて下さいました(12)。「イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。」(13)このときのイエス様のご様子は、かつて5000人にパンを分け与えられたことや最後の晩餐で聖餐を制定される御姿を弟子たちに思い起こさせたことでしょう。 (ヨハネによる福音書6章11節 p.145   ルカによる福音書22章19節 p.128)
炭火を囲んでのイエス様との食事は、弟子たちにとって沈黙と緊張、喜びと神聖な畏れの気持ちの入り混じった中でのものだったことでしょう。
イエス様が彼らのために食事を備えて待っておられたように、今も、私たちに先駆けて進まれ、必要なものを備え、そして私たちと共に歩んで下さいます。

結 論)5000人にパンを与えられた後、イエス様は、「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」 (ヨハネによる福音書6章51節 p.146)と言われました。イエス様の与えて下さるパンは、イエス様ご自身であり、主のご愛(聖霊)とみ言葉です。
弟子が復活された主からいただいた食物は、主のご愛の表れでした。私たちも、祈りと聖書のみ言葉を通して、イエス様と交わり、霊の糧(聖霊とみ言葉)をいただきます。   「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」 (ヨハネによる福音書8章31節 p.153)
み言葉による主イエスとの交わりと恵みにあずかりつつ、主のご愛と命をいただいて、日々の歩みをなしてまいりましょう。