マタイによる福音書28章16~20節

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。               マタイ28章18-20節 (p.50) 

序 論)
復活されたイエス様は、ガリラヤで弟子たちに会われました。そして、弟子たちに山に行くように命じられました。主イエスは…

本 論)

1.私たちにも近づいて来て下さる
よみがえられたイエス様の御姿を見て、拝した彼らの中に疑う者もいました(17)。「疑う」の元の言葉には、「二つの方向に進む」という意味があります。復活されたお方に出会うというのが、余りにも不思議な体験で半信半疑の弟子たちもいたということかもしれません。あるいはこの場に他の弟子たちもいて、彼らが疑ったのかもしれません。
しかし、イエス様は、疑う者も含めて彼らに近づいて来て下さいました。(18) 私たちも信仰の弱さを覚えるとき、主イエスが遠くに感じるときがあります。けれども、そのようなときこそ主イエスは最も近づいて来て下さいます。弟子のトマスも、かつて主の復活を疑いました。でも、主イエスはトマスに近づかれて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきに差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20章27節p.177)と言われました。
私たちも、ときに疑うことがあっても、さらに聖書のみ言葉を求め、礼拝し、神様に自分の心を正直に打ち明けて祈りましょう。イエス様は、み言葉を通して語りかけて下さり、私たちの信仰を強めて下さいます。そしてイエス様は、私たちの恐れを取り除き、さらに主のみ言葉に心を向ける者へと変えて下さいます。

2. 私たちと共におられる
「天においても地においても、一切の権威」を父なる神様から授けられたイエス様は「それゆえに」宣教を命令されます。その権威は神の御子としての権威であるだけでなく、十字架によって、罪と死と悪魔に勝利されたことによって父なる神様から与えられた二重の権威です。この権威の及ばないところはどこにもありません。それがたとえ地の果てであっても、日本の国であっても、主の権威の下にある場所であることを覚えましょう。
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(19-20)
この言葉の中心となる動詞は原文では「弟子とする」です。私たちは、洗礼を受け、聖書の教えを知り、行うことによって、キリストの弟子となり、成長し、イエス様に似た者へと変えられていきます。
かつて洗礼は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で授けていました。しかし、イエス様は、今、ここで新たにヨハネのバプテスマとは違う、「父、子、聖霊の御名による」 洗礼を授けることを命じておられます。すなわち、洗礼によって私たちは三位一体の神との交わりの中に入れられるのです。
そしてイエス様は「いつもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られました。  インマヌエルの神(マタイ1章23節 p.2 )(マタイ16章19-20節 p.28)である、イエス様が今も聖霊によって私たちと共におられます。
そして、ここでの臨在の約束は、私たち一人ひとりに与えられている約束であると同時に、特に宣教する教会に向けられている約束でもあります。主イエスは、教会(私たち) と共にいて下さいます。そして教会の喜びや苦しみはイエス様の喜びや苦しみでもあります。他の誰でもなく弱い不完全な私たちと共に宣教することをイエス様は選んで下さったのです。

結 論)イエス様が死んで復活され、世の終わりまでいつも共にいてくださることを信じ、心に覚えるとき、私たちの心と生活が守られ、新たな力が与えられます。
主イエスはいつでも、どんな場所でも共にいて私たちを励まし、悔い改めに導いて下さいます。そして、新たに立ち上がらせて下さるのです。
イエス様は宣教においても私たちを用いて下さり、共に行って下さいます。共におられる主イエスから勇気と力をいただいてそれぞれの場所に新たに遣わされてまいりましょう。