マタイによる福音書27章45~56節

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。                     マタイ27章46節 (p.48)

 

序 論)ローマ総督ピラトは、イエス様に何の罪もないことがわかっていました。それで人々の前でイエス様を釈放しようとします。しかし、イエス様をねたみ憎んでいた宗教指導者たちに扇動された群衆が「十字架につけよ」とますます激しく叫び、今にも大騒ぎになりそうでした。それでイエス様を十字架につけるためにローマの兵卒たちに引き渡してしまいます。(マタイ27章15-26節 p.47)
主イエスの十字架によって成されたことは…

本 論)

1 私たちの身代わりとなられ神様から見捨てられた
イエス様が十字架にかけられて、昼の十二時頃、突然、太陽の光が陰り、あたり一面が真っ暗になってしまいました。(45) これは父なる神様とイエス様の交わりが断たれたこと、断絶のしるしです。また、神無き世界の暗さ、罪深さを示しています。
これまでの覚悟を忘れて逃げ去った弟子たち、証拠もないのにイエス様に不利な証言を次々と重ねる人たち、イエス様が無実であることを知りながら十字架刑を許したローマ総督ピラト、皆自分の立場を守ることに精一杯でした。彼らは正しいことに目をつぶって、周りに流される方を選んでしまいました。
またイエス様のことを嘲(あざけ)って、つばをかけたり頬を打ったり、いばらの冠をかぶせた兵士たち、そして十字架につけられたイエス様を見てののしり続けた人たち、 それぞれの自分勝手な期待を押し付けたり、弱い者を嘲って自分が何者かであるようにふるまう者たちでした。そしてこれらの人々の姿に私たちの自己中心、自己保身に走ってしまう姿が表われています。
イエス様は、十字架につかれてからもこれらの人間の身勝手な振る舞いをご覧になり、心を傷つける言葉を聞かれました。しかし、沈黙を通されました。やがてイエス様の 口から出たのが、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と天の父なる神様に叫ぶ言葉でした。これはエゴイズム (自己中心)の罪のために本来なら神様に捨てられなければならない、私たち人間を代表しての叫びでした。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩篇22篇の最初の部分の言葉です。この叫びは、本来は痛みや苦しみの中で失望し、落胆し、神様に救いを求めている私たちの叫び です。イエス様は、私たちの身代わりとなるために、罪人と同じ立場に身を置き、私たちが神様に見捨てられなければならないところを代わりに見捨てられて下さいました。
主イエスが叫んで下さったこの祈りの言葉「どうして…」という問いの答えは「わたしのため」なのです。(「わたしの罪のため」、「わたしの身代わりとなるため」…)

2 罪の赦しと回復への道が開かれた
イエス様は最後に大声で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」叫ばれ、息を引き取られました。(ルカ23章46節 p.132) そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました(51)。神殿の垂れ幕とは、神殿の至聖所に至る隔ての幕です。そこには、選ばれた大祭司だけが一年に一度入ることが出来る幕です。最も聖なる神の臨在を表す、至聖所への幕、神の臨在に触れるためには供え物の動物の血を携えなければ入ることのできない幕です。それが、十字架の上でキリストの血が流されきったときに、人の手ではなく、神様の手によって、上から下に真二つに裂けました。それはイエス様が贖い(救いのみわざ)の使命を完了され、生ける神の臨在の前に罪ある人間が赦されて立つことのできる道が、このときに天より開かれたことを示しています。
イエス様はどんなに嘲られても、ののしられても、十字架から降りることも、死から逃れることもなさいませんでした。このときは天からの声も助けもありませんでした。 人間の目には、弱さと敗北のどん底での死をイエス様は迎えられました。しかし、百卒長(百人隊長)や、イエス様の見張りをしていた人たち、つまり一連の出来事とイエス様の御姿を最後まで、見続けた人たちが、「まことに、この人は神の子であった」と告白しました。(54)   彼らは、今まで自分たちが考えてきた救いとは違う、本当の救い、神からの救いを感じ、今まで当たり前と思い流されてきた自己中心の世界とは全く違う世界があることをイエス様の姿を通して見たのです。
私たちはイエス様のどの御姿を見て、信仰を言い表すでしょうか。イエス様の素晴らしい言葉やみわざを通しても、もちろん神の子、救い主の御姿を見ることができます。日々の生活の中で、目に見える具体的な祝福を受けることも感謝であり、喜びです。しかし、絶望に捕らわれているときや、愛する者を失うとき、十字架にかかられたイエス様を通して、他にはない神の救いを得ることができるのです。

結 論)イエス様は虐げられ、苦しみの中で、何の抵抗もされず、ただ神様の前に祈り、叫ばれながら十字架の上で死なれました。しかし、イエス様が息を引き取られたその時に地震が起こり、幕が開きました。これは、絶望のどん底と思えるようなところにも、希望の光が大きく差し込んでことを示しています。イエス様が私たちの身代わりに神様から見捨てられ、絶望を体験し、復活して下さったので、私たちはもう絶望しなくてよいのです。主を信じ、希望をもって新しい道を踏み出すことができるのです。
イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架の上で死んで下さったことを信じ、感謝して受け入れましょう。神様のあわれみと救いの御手にいつも守られて、希望のある幸いな歩みをなしてまいりましょう。