「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。」 (マタイ26章39節 p.45 )
序 論)イエス様は弟子たちといっしょに、それまでよく祈りをしておられたゲツセマネという園に行かれます。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れてさらに奥に進まれます。さらにご自分だけ少し離れた所に行かれ、うつぶせになって祈り始められました。主イエスは…
1 苦しみと霊的戦いの中で祈られた
「悲しみを催しまた悩みはじめられた」(35)イエス様はペテロら三人に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。…」(36)と言われました。
主イエスの悲しみと悩みは、十字架の苦しみと死がいよいよ目前に迫ってきたことによるものでした。悲しみのあまり死ぬほど、それは深い絶望です。イエス様はそういう 悲しみを味われました。
そしてその悲しみの中で主イエスはペテロたちに、「ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と言われました。弟子たちに、一緒にいて私を支えてほしいと頼んでおられます。それは、後で「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。」(41)と言われたように、主イエスと共に目を覚まして祈ること、それがイエス様にとって支えとなり助けとなります。それを主イエスは願われました。
イエス様の祈りの言葉の中の「この杯」は、これから起ころうとしている受難、十字架の死のことです。できることでしたら十字架につけられなくてもよいように、他に道があるのでしたら死ななくてもよいようにして下さいと切に祈られました。
なぜ、主イエスはそのように祈られたのでしょうか。それは主が、これから起こる十字架の出来事がどのようなものであるかをよく知っておられたからです。全人類の罪を 一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架にかけられるのです。その結果、今まで父なる神様との交わりの断絶を経験されたことのない、お方が、神の怒りを受け、捨てられ、断たれるからです。それは、他の誰も味わったことのない苦しみでした。
初代教会のキリスト者(クリスチャン)たちは必要とあらば喜んで殉教の死を遂げました。しかし、イエス様は何の罪もないにも関らず、罪人の中の罪人として、十字架の上でさばかれ、苦しみもだえ、死んで下さったのです。
このように、イエス様が死を恐れられたのは、勇気の欠乏によるのではなく、十字架の苦痛の特別な意味をよく知るっておられたからでした。そのために、苦しみもだえ、 血のしたたりのように大粒の汗を流して、切々と祈られたのです。(ルカによる福音書22章44節 p.129)
しかし、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(40)と続いて祈られます。これは直訳すると「わたしの意志するようにではなく、あなたが意志されるように」となります。わたしの意志、願いは この杯を去らせて下さること、十字架の死を免れることです。しかし、私の意志をではなく、あなたのご意志を行って下さい、そしてわたしがそれに従うことができるようにして下さい、と主イエスは祈られたのです。この祈りは、十字架の道を行かせまいとする、悪魔との激烈な霊の戦いの祈りでもありました。
2 神のみこころに従われた
ゲツセマネの祈りは、イエス様ご自身が、霊の戦いを祈りにおいて戦われたことを示しています。主イエスの二度目の祈りの言葉、「…、どうかみこころが行われますように。」(42)は、イエス様が、この戦いにおいて悲しみと恐れを乗り越えて、父なる神様のみ心(ご意志)に従って歩む信仰を貫かれたことを示しています。「あなたのみこころが行われますように」という祈りは、この後のイエス様の十字架の死への歩みの全てを支える祈りでした。
弟子たちが祈りを失い、眠り込んでしまっている中で、主イエスは祈りの戦いを戦い抜かれ、勝利されました。弟子たちはイエス様のために何の力にもなれませんでした。イエス様はただお一人で、戦い抜かれたのです。
「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。…」(45-46)。
この後、イエス様を捕らえ、十字架につけた宗教指導者たちは、「自分たちが勝った」と思ったことでしょう。
しかし、実は、そうではなく、罪人らの手に渡されることによって、イエス様は悪魔に対する完全な勝利をされたのです。この後の主の十字架、復活によって、神様の救いのご計画は成就しました。 この戦いは私たちのためでした。イエス様が、父なる神様のみ心に従って、十字架の死への道を歩み通して下さったことによって、私たちの罪が赦され、罪の支配から解放されて神様の恵みの下で新しく生きることができるようになった のです。
結 論)私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げ かけているだけのことが多いのではないでしょうか。そのような「願う祈り」、「願い求める祈り」も大切です。 しかし、ときには神様のみ心、ご意志はどこにあるのかを求める祈り、それに従って行こうとする祈りが必要なときがあります。
神様のみ心、ご意志を求めていくときに、それが自分の願いや思いと違うことに気づかされるときがあります。そのとき、神様のみ心に従っていくかが問われます。
主イエスがゲツセマネで祈り抜かれ、神様のみ心に従われたとき、全人類の救いの道が開かれました。
私たちも、神様のみ心に従うとき、その時はわからなくても、後に大きな世界が開れたり、道が開かれたとき、あのとき、み心と信じて、従ってよかった。み心に従うことが神様の恵み、大きな祝福の道だったのだと気づかされます。これからも行くべき道や選択に迷ったときも、神様のみ心を求めて祈ってまいりましょう。
最も大切なこのときに眠り込んでしまった弟子たちと同じように、主イエスと共に目覚めていることができず、すぐに祈りをやめたり、眠り込んでしまう私たちです。でも、イエス様は、今も私たちのために天においてとりなしの祈りをしておられます。そして私たちの内なる聖霊も、うめきつつ、私たちと共に祈って下さっています。 (ローマ人への手紙8章26節 p.243)
私たちは、主イエスの祈りの姿にならい、主の恵みに支えられて、祈りの生活を続けます。