ルカによる福音書14章1~6節

「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
 (ルカ14章5節 p.113 )

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。「…様子をうかがっていた」(1)とあるように、招かれていた人々は、主イエスのことを疑いの目で見つめ監視していました。主イエスのなさったことと言われたことは…

1 癒しのわざをなさった
そこに水腫をわずらっている人がいました。これは体液が体にたまってむくみができる循環器系の病気です。当時のある宗教指導者たちはこのような病を本人の不道徳の結果とみなしていました。パリサイ派の人たちは潔癖であることを重んじていましたから、食事の席にこのような人を招くことはほとんどなかったでしょう。
しかし、このとき彼がイエス様の「みまえにいた(真正面にいた 新改訳)」(2)のは、「律法学者やパリサイ人たち」(3)の裏工作でした。彼らはイエス様が、安息日に病を癒すというわざ、つまり仕事をするのかどうか、それを試すためにこの病気の人を呼んでイエス様の目の前に立たせたのです。そして、それをもとに主イエスを訴える口実を得ようとしていました。
このように人と親しくなるはずの食事の席で、隣人であるはずの病気の人を主イエスを陥れるために利用し、軽んじるようなことが行われていたのです
イエス様は彼らの意図を全部見抜いておられました。そしてこのような隣人への愛を失っていたパリサイ派の人たちの態度に対して、イエス様は言われます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」(3)
この問いに対して彼らは黙っていました。そしてイエス様は、その答えも待たずに彼を癒されました。癒しが終わるとイエス様は、この人をお帰しになられました。(4)  律法の中心である「十戒」の安息日規定は出エジプト記20章8-11節(p.102)に記されています。「安息」は「落ち着き先」、「目的地」の意味も含まれた言葉です。そして安息日は「主の安息」(出エジプト記20章10節)ですから、天地を創造された神を礼拝し、神を愛し、隣人を愛することを実践する日です。
当時のパリサイ人や律法学者たちは、細かい規則に捕らわれ、律法の最も大切な、「神を愛し、隣人を愛する」という「愛」を見失っていました。イエス様は、その最も大切なことを教えようとされたのです。

2 主イエスが「安息日の主」
病気の人を癒された後、主はこう言われます。「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(5)自分の息子が井戸に落ちたときには「安息日が終わるまで待って」などと言う親はいません。またそのようなとき命を救うことを優先するのは律法においても認められていました。病気で苦しんでいる人を癒すことはそれと同じではないかと言われたのです。それを、「病気を癒すことは仕事だから安息日にしてはならない」などと彼らが言うのは、安息日の本来の意味や目的を全く理解していない本末転倒になっていました。この場にいたパリサイ人たちにとっては、水腫を患っていた人の痛みを感じることなどなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、この人の痛みを「自分の」ことであると言われました。目の前にいる病人の苦しみと痛みを「自分の」子どもや家畜が井戸に落ちたようなものだと言われるのです。
私たちも人の痛みを「自分の」痛みとして覚えることができるのかが問われています。少しでも相手に寄り添ってお話を聞き、祈りに覚えたいと思います。そのように祈りをするときに、私たちが心に刻まなければならないことはイエス様がこの人の痛みを自分の痛みとして覚えて下さったことです。
イエス様は、この病の人の痛みをご自分の痛みとして癒しをして下さったように、私たちの痛みも覚えて下さり、私たちの最も良き隣人になって下さるのです。その愛をあなたたちの目の前にいる気の毒な病人になぜ注げないのか、あなたがたにとって「安息日」は一体、どういう日なのか、そのようなイエス様の鋭い問いに、「彼らはこれに対して返す言葉がなかった」(6)のです。
彼らはこのときは沈黙していましたが、このときの殺意を後に実行に移し、イエス様を十字架にかけてしまいます。しかし、そのような復讐を受けながら、彼らの罪を赦して ください、とイエス様は十字架の上で父なる神様に祈られました。(ルカ23章34節 .131)  父なる神様は十字架の上で死なれたイエス様を三日後に復活させられました。
それが週の初めの日(日曜日)の朝だったので、イエス様を信じる人たちは、安息日(土曜日)ではなく、日曜日にイエス様の復活を記念し、父なる神様を礼拝するようになり ました。

結 論) イエス様は「人の子は安息日にもまた主なのである。」と言われました(マルコによる福音書2章28節p.54)イエス様の十字架と復活によって私たちは罪赦され、罪の泥沼から引き上げられました。罪から救われ、罪赦された私たちにとっての安息日、「主の日」の中心はイエス・キリストです。イエス・キリストを通して神様を礼拝するとき、私たちそれぞれが、イエス様の真正面に立っています。
私たちは、主の日に、安息(心身の癒し)が与えられ、 食事(聖餐の恵み)にあずかります。そして、教会の交わりや愛餐は神の国の雛形(ひながた)(モデル)なのです。 そのような恵みをいただいて新たな一週間の歩みをなしてまいりましょう。