使徒行伝16章25~34節

それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。      (使徒16章30-31節 p.210 )

 

序 論)使徒16章は、パウロの第二回伝道旅行の記録です。11節からの後半部は、ヨーロッパでの最初の伝道地ピリピにおいて救われた人々の姿が告げられています。
あるとき悪霊につかれていた若い女性(女奴隷)はパウロの権威ある言葉によって悪霊から解放されました。でも このことがきっかけで、パウロとシラスは捕らえられ、投獄されます。獄中でパウロたちは…

1 神様を賛美した
パウロとシラスが鞭打たれ、足かせをはめられ、暗い牢獄の奥に捕らえられると言う不当な苦しみの中で、彼らは神様を賛美する、賛美の歌を歌っていました。それは神様をほめたたえる歌です。そして祈っていました(25節)。苦しみ、悲しみの中で「神様、この苦しみから救い出して下さい」と必死に祈ることは私たちにもあります。しかし、賛美の歌と共になされていたこの祈りは、そういう悲壮な祈りとは違います。賛美の歌を歌いつつ祈っている彼らの姿に、不思議な平安を感じます。この平安は彼らの内にのみあったのではなく、牢獄にいたすべての人々にも伝わっていったのです。「囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」(25)とあるように、パウロとシラスの賛美の歌声と祈りは、他の囚人たちの心をとらえ、静かに聞き入らせる力を持っていました。これらの賛美と祈り、そこにある平安と明るさを与えて下さっているのは、聖霊によって共にいて下さる主イエスです。私たちは、共にいて下さる主イエスに委ねて生きる者とされるとき、苦しみの中でも、賛美し、祈ることができます。

2 信仰の勧めをし、洗礼を授けた
囚人たちがパウロの賛美に聞き入っていたとき、突然、大地震が起こりました。牢の土台が揺れ動き、戸はみな開き、囚人たちをつないでいた鎖もすべて外れてしまいました。けれども囚人たちは誰一人そこを動こうとしませんでした。彼らは逃げ出すよりも、パウロとシラスのもとに留まっていたいと思ったのでしょう。パウロらの賛美と祈りは、彼らの心をそれほどに深く捕らえ、彼らにも平安と希望の光をもたらしたのです。そのときこの獄の獄吏(看守)は囚人たちが逃げてしまったと思い、絶望の内に自殺しかけたのです。パウロは、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる。」(28)と声をかけました。この獄吏はパウロとシラスの前にひれ伏し、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねました。二人は、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」 と告げました。私たちが救われるために必要なのは、主イエスを信じることです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり復活して下さった主イエス・キリストこそ、まことの主救い主であり、神の御子であることを信じて、イエス様に自分の人生を委ねることです。救いとは、苦しみがなくなることでも、命が助かることでもありません。救いとは、本当に身を献げ委ねるに足るまことの主人を見出すことです。このお方のもとでなら、本当に生き生きと喜びをもって仕えることができる、苦しみの中にあっても賛美し、祈ることができる、そのような真の主であるイエス・キリストとお出会いし、身を委ねることが救いです。

結 論)「そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」主イエスによる救いは、信じる私たちだけに与えられるのではなく、私たちの家族にも及んでいきます。
   主イエスを信じ、身を委ねるとは、自分の一番大切なものを委ねることです。そこには愛する妻や夫、子供、家族も含まれています。家族との関係という大切なものも
主イエスに委ねるのです。この獄吏がしたのは、まさにそのことです。彼はパウロたちを自分の家に招き、自分と家族の者たち全部が、パウロらの語る神の言を聞くときを、真夜中であるにも関わらず持ちました。そのことによって、彼と家族の者たちが皆、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかる者となったのです。今も、神様は、一人ひとりに働きかけておられます。私たちにもパウロとシラスのように、思いがけない出会いや思いがけない救いの出来事を体験させていただきましょう。より多くの方々が、イエス様のことを知り、イエス様を信じて救いの恵みにあずかることができるように、私たちも賛美し、祈り、主にある喜びに生かされ、主と教会に仕えてまいりましょう。