すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。 (ルカ13章23-24節 p.112 )
序 論)イエス様が安息日に一人の女性の病を癒された後、「神の国のたとえ」を語られました(18-20)。「一粒のからし種」や「パン種」は、福音の言葉の力、聖霊の力を表しています。たとえ小さく見えてもそれは大きくなり実を結ぶのです。さらにエルサレムの途上で出会った人たちに語られたことは…
1 狭い戸口から入るように
「狭い戸口」(24)は「狭い門」(新改訳)とも訳されています。罪から救われる救いの戸口という意味です。当時のユダヤ人は律法を守って行いによって罪から救われ、赦されると思っていました。
イエス様は、彼らに自分たちが神の選民だと考え、神の教えを聞き行おうとするだけで神の国に入れるのではないことを教えられました。ユダヤ人への厳しい警告です。
「努めなさい」の「努める」は競技用語で、全力を傾けて戦うことです。「狭い戸口から救いという家に入るよう努めなさい」と言われます。
狭い戸口とは、自分が罪ある者であることに気づき、自分の力で律法を守ることができない、自分で自分を罪から救うことができないことを認めることです。
私たちは、自分の努力で何とかなると思いがちです。でも、その家(救い)に入れて頂かねばどうにもならない自分であることに気づくこと(認罪)が救いの第一歩です。そして、それに気づく人は少ないとイエス様は言われました。そして、このときイエス様は、私たちの罪を背負って十字架におかかりになるためにエルサレムに向っておられまました。そして、十字架にかかって三日後に復活され、私たちを罪から救い、天の御国に迎える道を開いて下さいました。このとき「狭い戸口」と言われた「救いの扉」は十字架と復活によって誰にも開かれたのです。自分が罪ある者であると認め、イエス様が私の罪の罰を背負って、身代わりに十字架にかかって下さったことを信じて、受け入れるとき罪から救われるのです。このときは「狭い戸口」であった「救いの扉」は今、誰にでも開かれています。
2 「宴会をする家」のたとえ
この家(神の国)の主人(イエス様)は救いの戸を開けて人々を招いておられます。あるとき主人は家の戸を閉めました。これは、いつか主人(イエス様)が戸を閉ざされるときが来ることを示しています(25)。
これは、地上で生きている間に「救いの戸」が開かれ自分が招かれていることを覚えて、神様に心を向け、救い主を求めていきなさい、救いの戸口から入るように熱心に求めることを勧めておられます。
また12章以来、読んできた文脈から考えると、これは再びキリストが来られる(再臨される)までの時間が限られていることをも示しています。26節の「あなた」も主イエスのことです。イエス様のことを知ってはいたけれど、私の救い主として求め、信じなかった人たちは裁かれています。逆に「アブラハム、イサク、ヤコブ」は、神の国の宴会の席についています。彼らは主なる神様の呼びかけに答えて旅立ちました。(創世記12章1-4節 p.13) 先行きどうなるか分からない中で、神様に示される道を、主と共に歩んで行きました。彼らは、主なる神様と共に歩むという狭い戸口から入ったのです。「預言者たち」も神様のみ言葉を受け、それによって生き、それを人々に伝えた人たちです。
「悪事を働く者」(27)とは神様の招きに応えようとしないことです。神の国に入ることができないのは、罪を犯した人ではなくて神様の招きの御心を無視して、せっかく開かれている戸口から入ろうとしなかった人、あるいは入るチャンスを失い、そのうちに戸が閉められてしまった人々です。
神の国への招きはすべての人々に与えられています。しかし、イスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとせず、むしろ後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っているということが起こっています(29-30)。神様の招きに応えるかどうかは私たちの決断に委ねられています。それゆえにこのように後の者が先になり、先の者が後になることが起こるのです。
結 論) 神様は、罪のない清く正しい人を招いておられるのではありません。むしろ深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にいる私たちを招いておられます。そして独り子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を赦し、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。
罪人である私たちを招いて下さるために、主イエスは十字架の死という最も深い苦しみの戸口を通られ、天に上げられ、そのことによって私たちが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。
私たちも、神様の招きに応えて、主イエスが開いて下さったこの戸口を通って、救いにあずかりましょう。その戸口を通って救いの恵みにあずかった者は、主イエス・キリストが共にいて下さる信仰の旅路を歩むことができるのです。主は今日も、今も招いておられます。