イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。 (ルカ13章12-13節 p.112 )
序 論)イエス様が安息日にある会堂で教えておられたときのことです。その会堂に「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」(11)がいました。主イエスは彼女を癒され、その後に安息日について語られました。今回の箇所から示されることは…
1 解放の宣言
「病気の霊につかれ」(11)は当時の原因不明、治療不能の難病であることを表しています。この人は「会堂」にいました。神を礼拝するためにそこにいたのです。けれども腰に病を抱えていました。礼拝に行くのも、そこから帰るのも、不自由を感じていたことでしょう。あるいは神を賛美するときに、腰が曲がったままで賛美するのにも支障があったかもしれません。ときには心までもが萎えてしまい、神を賛美する気持ちにもなれないときがあったかもしれません。「イエスはこの女を見て、呼びよせ」(12)とあるように、主イエスの方からこの 女性に目を留め、癒しをなさいます。主は、彼女のこれまでの長い苦しみを思い、憐れまれて、助けられました。その御手を彼女の上に置かれる前に、イエス様は「女よ、あなたの病気はなおった」と仰いました。このみ言葉は直訳すると「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」となります。
この病から解放された女性の姿は、罪から救われ、解放された私たちの姿を示しています。私たちは、かつては心がまっすぐに真の神様に向わず、様々な偶像や罪に支配されていたものでした。聖書で言う、罪とは「不法」や「的はずれ」という意味が含まれています。
聖書は、罪に支配され、心が神様に向わない人間の姿を「狂った弓のようにねじれた」(新改訳では「たるんだ弓の矢のように、それて行った」)(詩篇78篇57節 p.818)と表現しています。弓が自分の力でまっすぐになれないように、私たちも自分の力で罪から抜け出すことはできません。そのような、私たちに神様は御手を伸ばされ、主イエス様を与えて下さいました。
イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、私たちは罪と死の支配から解放される道が開かれたのです。
ここ(11節)での「病気」は「弱さ、無力さ」という意味でもあります。この主イエスの宣言は「あなたは、あなたを捕えている弱さ、無力さから、それによる悩み苦しみから解放された」という意味でもあるのです。私たちも聖書のみ言葉を通して、主の言葉に触れ、主イエスのなされたみわざを知ります。イエス様を信じる者は罪から救われ、主は私たちの上にも御手を置いて下さり、「あなたの罪は赦された」と解放の宣言をして下さいます。私たちはその解放の恵みにあずかるのです。
2 解放の恵みに共にあずかる日
病が癒された婦人は、喜びをもって神様をたたえ始めました(12)。しかし、主イエスによる解放のみわざを見た会堂司は腹を立てました。群衆に言った言葉は、主イエスを批判する言葉でもあります(14)。主イエスは、彼に答えられます(15)。安息日であっても、つないでいる牛やろばを解いて水を飲ませることはする。それなのに18年間も病の霊に縛られていたこの人 (「アブラハムの娘」はユダヤ民族の同胞の意)をその束縛 から解き、解放してやるのは当然ではないか、と。
この会堂司は、律法を形式的、外面的に守ることによって、自分の正しさを主張し、人を批判し、思いやりの心を失った偽善者になっていました。主イエスはその偽善の罪を指摘されたのです。
主イエスは、ここで会堂司をやり込めることが第一の目的ではなく何よりも安息日の本当の意味、それを定められた神様の御心は何なのかを明らかにしようとしておられました。
安息日について語られている旧約聖書の申命記5章12~15節 p.255-256)に「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない」(14)とあるように、安息日に仕事を休むのは、自分の下で働かされていたしもべたち、そして牛やろばなどの家畜にも休みを与えるためです。
そして、安息日は、神様によって与えられたエジプトでの奴隷状態からの解放を記念し、感謝し、なお捕われの中にある人々にその解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかる日です。
安息日に家畜を解いてやって水を飲ませるのもそのためです。ですからこの女性を長い年月に及ぶ苦しみから解放することは安息日にしてもよいどころか、安息日にこそふさわしいことなのです。このように主イエスはここで、安息日が神様による解放の恵みを記念するための日であることを教えておられます。
結 論)私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配から解放されたことを記念する主の日、日曜日です。
この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書のみ言葉を通して主イエスの成して下さった救いのみわざ、私たちの罪からの解放の宣言を聞きます。
神が私たちをあらゆる束縛から解放してくださったことを、自分一人だけでなく、みんなで喜び祝い、賛美をするそれが、教会です。一人の方がイエス様を信じるて救われる神のみわざが起こされ、それを教会全体で喜ぶ。賛美の声があがる。これが安息日の大きな喜びです。そして安息日は神の御業に心を留め、隣人と共にその御業を喜び祝う日なのです。さらに多くの方々とこの恵みに共にあずからせていただきましょう。