「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 (コリントⅡ3章18節 p.281)
序 論)「キリスト者の完全」を生きる私たちは、ますますキリストに似た者に変えられ、キリストに似た愛の人にされていきます。この午後は、そのための聖めの生活の実践面を聴くことにしましょう。
本 論)
1 自分の体験を他の人と比べないこと
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12章9節)とあります。主は私たちそれぞれに、そうでなくてはならない体験を与えてくださっています。他の人の体験を無理に自分に当てはめようとしたり、自分の体験を誇ったり、卑下したりしてはなりません。
2 キチンと悩むこと
主は「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と語られました。聖めに生きる人は、聖霊によって悩みをすりぬけていく人ではありません。「これでよいのだろうか」と悩みながら、主に従う人です。そんな私たちを通して主は栄光を表してくださいます。
3 教会は愛の温泉リハビリ病院
私たちは罪によって傷つき病んでいます。自分の罪だけではありません。他の人の罪の結果によっても、自分では気がつかない深いところで痛んでいるのです。聖めはそんな傷や病の癒しです。主は「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(Ⅰペテロ2章24節)とあります。二つの治療が必要です。
a)み言葉温泉に浸り続ける
神さまからの愛のみ言葉の湯治が必要です。私たちの傷は深いので、毎日自分でも読み、毎週礼拝で聴いて湯治を続けることが必要です。
b)教会の仲間で愛のリハビリを受け合う
人間関係の中で受けた傷は、人間関係の中でいやされていきます。私たちには苦手な人、自分をいじめるように見える人がいます。けれども、実際はすべての人は「助けて!」と叫んでいます。嫌いな人の「助けて!」を聴き取り、自分も「助けて!」と率直に言うことが最高のリハビリです。教会は安心して学べる「愛の学校」であり、安心して失敗できる「愛の実験室」でもあります。
4.今いる場所へ派遣される
聖めの生活は、大伝道者や大聖人になることではありません。ただ、今目の前にいる人のところに遣わされていくことです。家族や職場・学校・地域にです。そこで地道に愛を与えて生きることが、神さまと共に世界の回復に向かって働くことなのです。
5.祈りのうちに毎朝、献身する
私たちの祈りは自分や家族の健康・必要・祝福に集中しがちです。けれどもその後で、主が祈られたように「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14章36節)」と祈ることにしましょう。そうして毎朝、神と仲間を選び取るのです。
結 論) 栄光から栄光へ
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(ピリピ3章17節)。主イエスの十字架と復活によって、私たちは罪と死の力から解き放たれました。その自由を、私たちは愛するために用います。そして死を超えて、栄光から栄光へと主に似た者に変えられていくのです。