「すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」 (ピリピ書3章13-14節 p.311)
序 論)「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)や「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(へブル12章14節)を読むとき、私たちの心は動揺します。今朝は聖書の全体から、「キリスト者の完全」あるいは「聖化」と呼ばれる恵みを味わいましょう。
本 論)
1 聖書は神の愛の物語
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1章28節)と言って、神は私たちを造られました。神は私たちと愛し合うことを願われたのでした。けれども、その願いは破れてしまいました。
神さまはただちに「女のすえ」(創世記3章15節)から救い主を誕生させることを約束してくださり、アブラハムを通してそのご計画を始めてくださいました。御子イエスの十字架と復活です。愛の回復がその目的です。私たちのために御子を与える愛は「神の狂おしいほどの愛」と呼ばれます。そんな愛によって、私たちは神の子とされました。主イエスは律法の成就のために来られました。律法の二つの中心は、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6章5節)と「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ19章18節)。やはり神さまの願いはいつも愛なのです。
2 愛することに失敗する私たち
神の子とされた私たちは、心から神と人を愛してたいと願っています。ところが現実には日々愛することに失敗してしまいます。行いにおける完全に達することができないのです。それを否定するなら偽善になります。反対に何が何でも達成しようとするなら、いつまでも安心して神さまの愛を楽しむことができません。
パウロも「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したい」(ピリピ3章10-11節)と願いながら「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく」(12節)と告白しています。
結 論) 愛をあきらめない神さま
それでは、地上における「完全」あるいは「全き聖化」は存在しないのでしょうか。神さまは愛をあきらめてしまわれたのでしょうか。もちろんそうではありません。「前のものに向かってからだを伸ばしつつ(エペクタシス)」(13節)がカギになる言葉です。鶴が思い切り首を伸ばして飛ぶように、これ以上愛することができない限界まで愛するなら、そこに姿勢の完全があります。今日の自分に可能な限り神と人を愛することが、キリスト者の完全なのです。ですから、
1)あなたは完全です。
キリスト者の完全は、神さまと人を「いま、ここで」自分の存在をあげて愛することです。現在の自分に可能な愛を注ぐならあなたは「キリスト者の完全」を生きているのです。
2)完全は成長し続けます。
私たちのキリストにあるいのちは成長します。昨日の100%は今日の90%かもしれません。これを完全に向かいつつある完全(perfecting perfection)と呼びます。ですから昨日の自分に満足することは完全を失うことなのです。
3)悔い改めはキリスト者の完全の、正常な一部分です。
私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。その度ごとに、悔い改めて赦され、回復していただくならば、キリスト者の完全は保たれていきます。