ルカによる福音書13章1~9節

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
(ルカ13章8-9節 p.112 )

序 論)主イエスがご自分のもとに集まって来た群衆たちに対してお語りになっているとき、何人かの人たちがイエス様のもとに来ました。彼らは、ローマ帝国の総督ピラトが、ガリラヤ人たちにしたことをイエス様に告げます。
主は答えられ、その後、一つのたとえを話されます(6-9)。この箇所のみ言葉が伝えていることは…

1 悔い改めの勧め
    ガリラヤ人たちが殺害されたのは、過越祭のときだと言われています。この祭りのときは、祭司以外の人々が自分のささげる動物を自らほふることのできる唯一の機会でした。ガリラヤ人たちもエルサレムに上り、いけにえにする動物を神殿でほふっていました。そのときピラトが彼らを危険視し、殺害しました。当時、ガリラヤは反ローマの拠点と見られていたのです。ピラトがガリラヤ人の血を「彼らの犠牲の血にまぜた」(1)というのは、彼らが礼拝し、いけにえのための動物をほふろうとしたときと、彼らが殺されたときが同時であったことを示しています。この事件をイエス様に伝えた人たちは、不幸な出来事はすべて罪の結果であると思っていました。これらのガリラヤ人も過去に何かの罪を犯していたから、こんな災難に遭ったのだと思っていました。このような考え方を因果応報 の考え、応報思想と言います。このような考えをもう一歩進めると、何かの災いに巻き込まれなかった者は、罪がないことになります。そして、不幸な出来事のニュースを聞くと、知らず知らずのうちに事故や事件にあった人を断罪したり、自分は、罪汚れのないものであるかのように思い込んでしまいます。ところがイエス様は、彼らのこのような考え方に対して決してそうではない、と否定しておられます。(ヨハネ9章1-3節p.151 参照)  そしてここでは今度は主イエスの方から、最近起こった別の出来事を持ち出されました。それはシロアムの池のそばにあった塔が事故で倒壊し、18人の死者が出た事件でした。(4) ユダヤ人とかガリラヤ人とかに関係なく事故や事件は、誰にでも起こる可能性があることを示されました。そして、それらの根本にあるのは人間の罪なのです。
罪とは、何か不幸な出来事、事件や事故があってはじめて人の前に姿を現わすような影の薄いものでは、ありません。どの人間のうちにも罪は根強くはびこっています。
特に大きな罪は、天地を創られ、ひとり子イエス様をこの世に送って下さった父なる神様のご愛を信じきれず、イエス様を受け入れないことです。
イエス様が地上に来られ、公生涯の期間に福音を人々に宣べ伝え、この時代の人々と共に生きておられる「今の時代」(12章56節)は他のときにはない、特別な時でした。
神様のご愛と人を罪から救いたいという御心がイエス様によって明らかに示された時でした。神を信じなかったり、神様から心が離れている罪を悔い改め、神様のもとに立ち返ることをイエス様は願われ、悔い改めを説かれ、勧められました(2節、5節)。
私たちが神様のご愛に気づかず、ずっと罪の中に生き続けるのなら、最後に待つのは「滅び」です。でも、イエス様を遣わして下さった父なる神様のもとに「立ち返る(悔い改める、心を向ける)」とき、私たちは、罪による滅びから逃れ、永遠の命に生かされる道が示されるのです。それは、イエス様を神の御子、救い主と信じ、心に受け入れ、主イエスに従うことです。

2 神の忍耐、主のとりなし
   次にイエス様はぶどう園に植えられた一本のいちじくの木のたとえを話されます。この木は植えられてからもう3年になりますが、実をみのらせたことがありませんでした。 ぶどう園の主人は、それが実をみのらせることを願っていました。このいちじくの木が実をみのらせること、それは主イエスが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。  イエス様は、このたとえで主人(父なる神様)の裁きの厳しさではなく、ぎりぎりまで待ってくださる忍耐を強調しておられます。確かに、この主人の忍耐は普通ではありません。実を結ぶのを当然期待できる年限が過ぎてからさらに三年も待ったのです。ついに実を結ばなかったいちじくを切り倒してしまうのは、ごく当然のことと言えます。
しかし、このぶどう園の園丁は三年を無駄に待った上になお、木の周りを掘って、肥しをやってみますと言います(8)。この園丁の忍耐は常軌を逸しています。イエス様は、ご自分を園丁にたとえ、神様と御自分が、人間に対して長く忍耐しておられることを語っておられます。そして、この忍耐の背後に、ご愛といつくしみがあるのです。
園丁の最後の言葉は、「私が切り倒します」ではなく、「(あなたが)切り倒してください。」(9)です。いちじくの木(わたしたち人間)を愛し、いつくしまれる園丁(イエス様) 木(わたしたち人間)を愛し、いつくしまれる園丁(イエス様)は、最終的判断をご自分では下さず、主人(父なる神様)に委ねておられます。主人(神様)の怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執り成しをする園丁、それは、悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神様との間に立って執り成しをして下さる主イエス・キリストです。この園丁、主イエスの執り成しの祈りがあるから、私たちはなお切り倒されず、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。

結 論)私たちは、神様の方に向きを変えることがなかなかできません。まことに頑なな、悔い改めることができない私たちです。
しかし、そのような私たちのために主イエスが人間となって下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。主イエスによって、私たちが悔い改め神様に心を向けて生きる者となる道が開かれたのです。
神様は今もイエス様を通して私たちが悔い改め、ご自身のもとに帰ってくることを今も待っておられます。神様に立ち返りましょう。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」 (Ⅱペテロの手紙3章9節 p.374)