ルカによる福音書12章49~53節

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」   (ルカ12章49節 p.111 )

序 論)弟子たちへの教えを語り続けられたイエス様は、さらにご自分の宣教の目的について語られます。イエス様がここで言われた「火」(49)は、何を意味するか、いろいろな説がありますが、「聖霊」のことを言われていると解釈することができます。主が投じられる火は…

1 罪をさばく火
「舌は火である。不義の世界である」(ヤコブの手紙3章6節 p.362)、「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ人への手紙3章5節 p.317)とあるように、私たちは 舌(言葉)で過ちを犯し、心の中には不義や貪欲、罪の火が燃えています。私たちは罪の火に燃やされながら滅びに向っていました。しかし、神様は、私たちを罪から救うために、イエス様を地上に送って下さいました。主イエスは、私たちを新しく生かす神からの火を投じるためにこの世に来られたのです。そのことによって私たちを救われることが、
イエス様の救い主としてのみわざです。
そして、この火を投じるために、ご自分には受けねばならないバプテスマ(洗礼)がある、と言われました(50)。
「それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。」(50)と言われた様に、主イエスは深く苦しまれることによってこのバプテスマを受けられます。ですからこのバプテスマは、十字架の死を意味しています。苦難と十字架の死という洗礼を主イエスはこれから受けようとしておられました。そして、そのことによって聖霊が私たちの内に投じられるのです。
罪に支配され神様に背き逆らっていた私たちは、神様の怒りの火、さばきの火によって焼き滅ぼされるべき者でした。そのさばきの火をイエス様が十字架の上で私たちに代わって受けて下さったのです。50節「それを受けてしまうまで」(口語訳)(「それが終わるまで」(新共同訳)「それが成し遂げられるまで」(新改訳))の「終える」のもとの言葉は受け身形です。火を燃やされるのも、主イエスの受けられる洗礼を成し遂げられるのも父なる神様です。主イエスの死は神様のみ心によるものでした。ご自身の独り子をこのバプテスマのために、すなわち十字架の苦しみと死のために遣わして下さったところに、神様の私たちに対する深い愛が示されています。
そして、主イエスが引き受けて下さった神様のさばきの火は、同時に主イエスを復活させ、新しい命を与える救いの火となったのです。
私たちが受ける洗礼は、主イエスによって投じられたこの神の火によって古い自分が焼き尽くされて死に、同時にその火によって新しい命を与えられて生きるという救いの徴(しるし)なのです。洗礼によって私たちはキリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命によみがえったのです。(ローマ人への手紙6章3-4節 p.240) イエス様を信じて洗礼を受けたキリスト者の内には、主イエスによって投じられた神の火が燃えているのです。

2 罪をきよめる火
     この神の火が、私たちの間に分裂、対立を引き起こすと言われます(51-53節)。家族の中で初めにイエス様を信じた人とまだ信じていない人たちの間に、見えない「壁」ができてしまうのです。はじめは誤解されたり反対を受けることもあります。それは神の火と罪の火の対立でもあります。しかし、聖霊を内にいただいて、神を愛し、隣人を愛して歩む者たちを通して、主イエスの愛が証しされ、家族や周りの人たちに神様のご愛が伝えられていきます。主イエスを信じ、受け入れる人たちも起こされてきます。隣人のために祈り、愛し、仕えてまいりましょう。
イエス様の御降誕のとき、御使いの軍勢が「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」と賛美しました。    (ルカ2章14節 p.85)
主イエスは、最終的には地上に平和をもたらすために来て下さったことを忘れないようにしましょう。
出エジプト記に出て来るモーセが出会った「燃える柴」(出エジプト記3章2-3節 p.76)について日本伝道隊の竹田俊造先生は次のように言われています。「燃える柴は聖徒(クリスチャン)の型であり、その炎は主の臨在のしるしである。…燃えているのに燃え尽きないのは、焼き尽くされるべきもの(罪)が焼き尽くされたからである。」(『燃える柴』より)
私たちは、柴のようにもろく、弱く、燃え尽きやすい者です。そんな私たちを主は聖霊の火で燃やし、 罪をきよめ、支えて下さいます。十字架を仰ぎ、聖霊により頼んで、罪のきよめの恵みをいただきながら歩みましょう。

結 論)私たちは主の十字架による罪の赦しの恵みと、主の復活により神の子として生きる新しい命の恵みをいただきました。
今も、この世の火、人間の火同士の対立の炎が世界中に広がり、私たちから平和を奪い、恐れさせ、不安にしています。しかし、だからこそ私たちは主イエスが投じて下さる聖霊の火を祈り求め、この火によって新しくされ、主のご愛と平和の中に生きてまいりましょう。

(参考)
ブレーズ・パスカル(1623-1662)の「覚え書き」
(1654年11月23日)

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。 哲学者および識者の神ならず。 確実、確実、感情、歓喜、平和。 イエス・キリストの神。 わが神、すなわち汝らの神 汝の神はわが神とならん。 神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。 人の魂の偉大さ。 正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。 われ神より離れおりぬ。

生ける水の源なるわれを捨てたり わが神、われを見捨てたもうや。願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。 永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝の

つかわしたまえるイエス・キリスト とを知るにあり。 イエス・キリスト。 イエス・キリスト。 われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。 願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。 彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。 全くこころよき自己放棄。 イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。 地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。 われは汝の御言葉(みことば)を忘るることなからん 。アーメン。