詩篇37篇1~9節

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ
 主が成し遂げてくださる。」
             (詩篇37篇5節 新改訳)

序 論)この詩篇は、ユダヤの人々が記憶しやすいように始まりがヘブル語のアルファベットによって区切られている、いわゆる「アルファベットのうた(いろは歌)」の型になっています。知恵の教師らによって教えられた、多くの人々が口ずさんできたものと考えられています。今回の箇所で示されることは…

1 主に信頼して善を行え
     現実の世の中では、悪人が栄え、善人が苦しんでいます。そのような現実の中で私たちはどう生きるべきなのかをこの詩篇は教えています。
「この国に住んで…」(3)(「地に住み」新改訳)とは、自分の置かれた場から逃げ出さないで踏みとどまるという意味です。そこで、神に対する誠実、人に対する誠実を養えと勧められます。
口語訳で「安き」、新改訳で「誠実」、新共同訳では「信仰」と訳されたヘブル語の言葉は、「アーメン」と同じ言葉が由来です。神様はご自身が約束されたことを決して破られることがありません。それが神様の「真実」です。そして、人から神様に対する場合は「誠実」と訳されています(主に新改訳)。
人の神に対する誠実は「神様を尋ね求める誠実」です。そして、それが「信仰」とも言えます。それゆえ新共同訳では、「信仰」と訳されています。(詩篇14章2-3節 p.758 で「神をたずね求める」 と「善を行う」が対応している)
私たちは逆境の日に、人の弱さと心の優しさ、そして互いに思いやることを学びます。また苦しみの中で、神様への信仰と人との連帯を学ぶのです。
そうした生き方ができるためには、主を自らの喜びとしていることが大切です。「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ記8章10節 p.675)
「喜び」は、自発的なところに生まれてきます。強制されているところには「喜び」はありません。喜びは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われる、主のご愛をいただき、その愛に応えて自発的に主イエスを愛し、人を愛するところに生まれてきます。

2 あなたの道を主にゆだねよ
       主に「ゆだねる」ためには、神様を知ること、神様との親しい交わりが必要です。しかし、私たちにはゆだねることがなかなかできません。ゆだねる相手が神様であっても 疑ってしまったり、神様以外のものに頼ってしまいます。ここに私たちの根深い罪があります。しかし、そんな私たちのために主イエスは十字架にかかり、復活して下さいました。主イエスを通して神様のご愛を知る時、私たちは神にゆだね、主を信頼する者に変えられていきます。
また、私たちはなかなか「主の前にもだす」(7)「主の前に静まる(新改訳)」ことがなかなかできない者です。いろいろな恐れのゆえに揺れ動いてしまいます。しかし、主に信頼し、主にゆだねることによる平安と安全を経験していく中で、主の前に静まることができる者とされていきます。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節 p.788)も同じメッセージが語られています。自分だけで戦おうとせず、主の前に出て、主と共に歩めと告げています日々の忙しい生活の中でも主の前に静まるときを持ちましょう。

結 論)「たとえその人が倒れても、全く打ち伏されることはない。」(24節)
「その人は倒れてもまっさかさまに倒れはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(24節新改訳)
私たちはたとえ倒れることがあるとしてもまた立ち上がることができます。私たちには、愛と恵みに満ちた導きの御手、支えの御手があります。
神様は正しい者(主にお頼りする者)の人生の歩みを固くして下さり、確かな導きをもって、その人を導き、必要を満たして下さいます(25節)。
新しい年の歩み、宣教の働きに対しても、会堂建築のことに対しても、与えられたみ言葉によって主を信頼し、主に委ねて、取り組んでまいりましょう。