ローマ人への10章14~17節

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 (ローマ10章17節 p.246)

序 論)ローマ人への手紙への手紙9章から、パウロはユダヤ人の救いの問題について語ります。彼らは、行いによって神の前に義とされようとしましたが、それを得ることはできませんでした。パウロはこの手紙でも信仰によって義とされることを説き続けてきました。今回の箇所で示されることは

本 論)1 キリストの言葉を聞き、信じて救われた
「キリストの言葉」(17)は、福音書の中で、イエス様御自身が語られた言葉であり、
イエス様が神の御子、救い主であることを証しする言葉、福音のことです。私たちは、聖書を通して、キリストの言葉を聞きました。旧約聖書では「聞く」と「従う」という言葉は、同じ「シェマー」という言葉が使われています。ですから、単に聞くだけでなく、従わなければ本当に聞いたことにならないのです。
パウロは16節で、イザヤ書53章1節の言葉を引用しています。(旧約聖書p.1021) イザヤ書53章は「主の僕の歌」と呼ばれ、ここで歌われている僕は「苦難の僕」と呼ばれています。パウロは、この主の僕の歌がイエス・キリストにおいて現実となったと語ります。苦難を受け、十字架にかかって死んだ人を、救い主(メシヤ)として信じ、受け入れることは当時のユダヤの人たちには難しいことでした。彼らは、ローマ帝国の支配から武力によって、解消してくれるメシヤを待ち望んでいたからです。
しかし、パウロは、十字架にかかられ、復活されたイエス様こそが唯一の本当の救い主であることを証しし、宣べ伝えていきました。そして、ユダヤ人以外の人たち(全世界の人たち)にも福音が伝えられ、イエス様を救い主と信じ、受け入れる人たちが次々に起こされてきたのです。自分が、神の前に罪ある者であると認め、この私の罪のために
主イエスは十字架にかかって復活して下さったと信じ、イエス様は私の救い主です、と告白する者は救われるのです。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」        (ローマ人への手紙10章9節 p.246)
そして、自分の罪を認め、主イエスを信じることができるのは、聖霊によるのです。 「…、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということはできない。」        (Ⅰコリント12章3節 p.270)
主イエスに信頼し、主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われるのです。

2 私たちも主から遣わされた者
パウロは主イエスから遣わされた者であるがゆえに宣 べ伝えることができました(11)。   牧師や宣教師だけでなく、キリストの救いにあずかった 私たちは皆、主から遣わされた者であり、神様がそれぞれの地に置いて下さっているのです。
パウロは、15節後半でもイザヤ書の言葉を引用しています。これは、イザヤ書52章7節の言葉です(p.1020)。ここでの「良い知らせ」は「あなたの神は王となられた」  ことです。主なる神がシオン(エルサレム)で王となられ、バビロンに捕らえ移されている民を故郷に連れ帰って下さる、その救いの知らせを伝える者の足は何と麗しいことか、と歌っています。
パウロはこの言葉を、神によって遣わされた人がキリストの言葉を宣べ伝えることを語った後に引用しています。その人が宣べ伝えるキリストの言葉は、捕囚の民の解放宣言以上に喜ばしい知らせなのです。それは罪からの解放を伝える言葉だからです。   そして、福音を伝える人の足(その人の存在そのもの)は麗しい(「美しい」(新共同訳))のです。それは、私たちが伝え、持ち運ぶ、福音、キリストの言葉そのものが尊く、麗しいものであるからです。

結 論)伝道すること、人を訪問すること、奉仕すること等、それらは、とても大切なことです。でも、まず神様の前に出て祈り、主との霊的な交わりを深め、聖書のみ言葉を聞き、黙想し、心に留めていくことが最も大切です。
主との交わりの中でキリストから受け取った愛とみ言葉をたずさえて、他の人に、周りの人に対していきましょう。
新しい年、忙しい日々の中にあっても聖書のみ言葉をじっくりと読む時間を取り、黙想し、 主との交わりを深めつつ、福音に生かされて主と教会と地域の人たちのため仕えてまいりましょう。