ルカによる福音書2章22~35節

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」              (ルカ2章29-32節 p.86)

序 論)イエス様がお生まれになってから40日後、両親のヨセフとマリヤはイエス様を連れてエルサレムに上り神殿で犠牲をささげました(22-24節)。(23節は出エジプト13章2節 p.92  24節はレビ記5章7、11節の律法の引用)
そのとき神殿に来ていたシメオンは…

本 論)1 聖霊に導かれて救い主にお出会いした
   シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた(25)のです。神様の慰めと、救いを願い、どれほど祈り、待ち望んできたことでしょう。彼に「聖霊が宿り」(25)、 救い主にお出会いするまでは死ぬことはないという約束を聖霊によって与えられていました。彼は、エルサレム神殿で両親に抱かれた赤ん坊のイエス様を見て、腕に抱いて神様をほめたたえました。
私たちも人生の中にいろいろな苦しみや悲しみや不安があります。でも、その中で、いつか希望の光が見出されることを待ち望んで歩んで来ました。そのような中で、神様の霊(聖霊)に導かれて、聖書の言葉に出会い、真の神様を知り、イエス様にお出会いすることができたのです。イエス様は「わたしは世の光です。」(ヨハネ8章12節 新改訳)と言われるように、闇のように思える世に輝く唯一の希望の光なのです。
シメオンは「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。」(29)と言いました。「あなた」とは主なる神様です。主にある平安は、人との関係や自分の力で得るのではなく、神様が与えて下さるものです。主イエスが仲保者となられることによって神様と自分との間に「あなたと私」という一対一の関係が与えられ、その神様によって安らかさ、平安、慰めが与えられるのです。

2 聖霊によって十字架の救いを預言した
  「シメオンの賛歌」(29-32)は、長年待ち望んでいた救い主と出会い、生涯最大の目的を果たし、安心して平和のうちに世を去ることができる喜びを歌っています。また幼子イエス様を腕に抱きながらの賛美は、神の救いが、この方が地上に来られたことによってなされるという高らかな宣言でもありました。さらにシメオンはこの幼子による救いが「万民のまえにお備えになったもの」であり、「異邦人を照らす啓示の光」(31-32)であると宣言しました。シメオンは聖霊によって、この幼子が全世界の救い主であることを示されました。そして、救い主が、このイスラエルの民の中から出現したことは「み民イスラエルの栄光」(32)でした。このような預言はヨセフとマリヤをとても驚かせました。
さらに驚くべきことは、シメオンがこの幼子がやがて体験することになる受難を予告したことでした。そのことを母マリヤに祝福と共に語ります。(34-35節)。
「多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりする」
イエス様を救い主として信ずることができず、受け入れない人たちは、つまずいてしまいます。しかし、イエス様を信じ、受け入れる人は、絶望から新たに立ち上がることができるのです。
イエス様は、イザヤが預言したように「万軍の主から与えられたしるし」(イザヤ書8章18節 p,953)でした。しかし、多くのイスラエルの民は、イエス様を受け入れず、十字架に追いやったのです。主は「反対を受けるしるし」(34)となられました。
イスラエルの民たちのイエス様に対する拒絶とイエス様の死は、悲しみの「剣(つるぎ)」となって、母マリヤの「胸(心)を刺し貫き」ました。
そして主イエスの言動と十字架の死によって、「多くの人の心の思い」、罪が明らかにされました。神に背を向け、反抗し、神を愛することができず、人を愛することができない私たちの罪を主イエスが背負われ、私たちのために十字架で死なれ、私たちの救い、万民の救いを実現して下さったのです。

結 論)シメオンの預言は後に現実となり、主イエスは十字架と復活によって、万民のための救いを成し遂げて下さいました。
イエス様を信じ、心に受け入れ、従って歩む者は、主にある平安と祝福の中で歩むことができます。地上の人生が終わるときも、祝福の中で、御国へ移されるのです。
今年一年を振り返りその恵みを数え、主に感謝し、新しい年を迎えましょう。
シメオンのように主にお出会いできた恵みを覚え、感謝と喜びをもって主を賛美しつつ、新たな歩みをなしてまいりましょう。