マタイによる福音書2章1-12節

「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」 (マタイ2章10-11節 p.2)

序 論)マタイ福音書2章の前半は、イエス様の御誕生後しばらくしてバビロンの辺り(現在のイラク地域)から星占いをする学者(博士)たちがエルサレムに来たことが述べられています。彼らは…

本 論)1、「ユダヤ人の王」を求めた
「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。…」(2)と博士たちは問いました。当時、ユダヤの地を支配していたヘロデ王はその言葉を聞いて不安を感じます。「ユダヤ人の王」は、やがてユダヤの国にお生まれになる救い主のことを意味していました。
ヘロデは、政治的手腕はありましたが、純粋なユダヤ人ではなく、王位が奪われるのを極度に恐れていました。それで後に、幼子イエス様の命を奪おうとします。
また旧約聖書に精通していた、律法学者たちは、救い主がお生まれになる地がベツレヘムであることを知っていましたが(4~6節)(旧約聖書 ミカ書5章2節 p.1288)、 救い主を捜そうとはしませんでした。
しかし、博士たちは、星に導かれて、1000キロメートル以上離れた東方の地から、救い主にお会いしたい、拝したいと願ってユダヤの地までやって来ました。ドイツの神学者シュライアマッハー(1768-1834)は、「この星は私たちすべての心の中にある神への深いあこがれを表している、私たちをも真の王に出合わさせてくださる星だ」と言っています。
私たちも、出会った人や、本や映画や、いろいろなことを通して、聖書の言葉に触れ、イエス様とお会いすることができました。それらは私たちにとって「メシヤへの星、導きの星」です。神様は、今も私たち一人ひとりに人生の様々な出来事を通して働きかけられ、私たちを主イエスのもとに導いて下さるのです。

2、イエス様を礼拝し、贈り物をささげた
  博士たちは、エルサレムで示された「ベツレヘム預言」に従い、出かけました。すると星が再び現れ、先立って進み、彼らを幼子のいる場所に導きます。彼らはついにその目的地に着きました。
そこで、彼らは幼子イエス様の前にひざをかがめて,礼拝しました。自分たちの真の王、救い主の前にひれ伏したのです。そして、自分たちの最も大事にしていたものをささげました(10-11節)。
彼らが求めていたのは、自分の希望や理想を実現することではありませんでした。それは、自分が本当にひれ伏して、そのお方に身をささげる、そういうお方を見出すことでした。彼らはそのお方に出会い、自分を本当に正しく治め、導き、守り、支えて下さる王の前にひざをかがめることができました。
そして、そのことこそ、私たちに本当の喜びを与えるのです。私たちが喜びをもってこの人生を歩み、暗闇の中でも光を仰いで生きる力は、この喜びから来るのです。この後、幼子イエス様は、成長され、30歳のときから公に宣教活動を始められました。しかし、ユダヤにおいて力を握っていた、王や祭司長や律法学者たちは、「ユダヤ人の王」を恐れ続け、神の救いを拒み、ついには、イエス様を十字架に追いやりました。 本来は、やがて来られる救い主を意味する「ユダヤ人の王」という言葉が、後にイエス様を尋問したり、侮辱したりするときに用いられる言葉になってしまいます。(後に総督ピラトが、イエス様に対して「あなたがユダヤ人の王であるのか」と尋問した。 マタイ27章11節p.47)  (ローマの兵士が「ユダヤ人の王、ばんざい」と侮辱する。  マタイ27章29節 p.48)  (「これはユダヤ人の王イエス」の十字架の上に掲げられた罪状書き  マタイ27章37節)
イエス様が十字架にかかられたのは、王や宗教指導者総督ピラトやローマの兵士たちの言動に現わされた彼らの罪、私たちのすべての罪の罰を身代わりに背負って、死なれ、その罪を赦し、罪から救うためでした。
十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は、私たちの永遠の救い主です。イエス様と真にお出会いした私たちは、イエス様をもう「ユダヤ人の王」とは呼びません。イエス様を信じ、心に受け入れ、人格的な交わりを持つ者は、イエス様を「神の御子、救い主」と告白するのです。そして、イエス様を礼拝する者とされます。

結 論) 聖書は「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」(10節)と語ります。本当にひれ伏し、礼拝すべき方のもとへと導かれるとき、私たちは本当の喜びに生きることができるのです。私たちは、真の王、救い主イエス様にお会いし、主を礼拝し、賛美するとき、心が満たされます。
イエス様に向って、「イエス様、どうぞ、私の心の中にもお入りください。私ではなく、あなたが私の王となり、私の心を治めてください。」と祈り、求めていくとき、私たちも永遠の王であるお方に、人生の旅路の中で、必ずお会いすることができるのです。  クリスマスは、「キリスト礼拝」という意味です。主イエス様を共に礼拝し、賛美する喜びをもって、このクリスマスのときを過ごしましょう。そして、主イエス様と共に生きていきましょう。