わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 (ローマ1章16-17節 p.233)
序 論)パウロは、この手紙を、第3回伝道旅行(AD53-57年頃)の際に3か月滞在した、リントで書いたと考えられています。あいさつ(1-7)の後、ローマ訪問を熱望していることを語ります(8-15)。そして、福音を宣べ伝えたい理由を語ります。(16節の原文には「なぜなら」という意味の言葉が使われている)
本 論)1、福音は救いを得させる神の力であるから
パウロは「わたしは福音を恥としない」と語ります(16)。しかし、私たちが日本の社会でキリストを信じそれを宣べ伝えようとようとするとき、私たちは恐れと不安を覚え、ときには恥ずかしい思いをすることがあるかもしれません。
では私たちも「わたしは福音を恥としない」と言えるために何が必要なのでしょうか。パウロがここで伝えているのは、自分の意思の強さや信仰の深さではなくて、福音そ のものの力です。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも」は世界の全ての人々にという意味です。すべての人々に信じることにより救いをもたらす、その神の力が福音には働いています。その神の力を信じ、それに信頼することによってパウロは、福音を誇ることができたのです。私たちも福音を恥とせず、誇ることができるために必要なことは、自分の強い意志や不屈の信仰を持とうとすることではなく、福音に働いてい神の力を知ることです。 パウロは福音の中心を1章2-4節で語っています。それは神の独り子イエス・キリストの十字架と復活です。そこに信じる者すべてに救いをもたらす神の力が働いているの
です。では、主イエスの十字架と復活はどのようにして、信じる者すべてに救いをもたらすのでしょうか。そのことを語っているのが次の17節です。(17節にも16節と同じく原文では「なぜなら」という接続詞がある。)
2、福音には神の義が啓示されているから
17節のはじめを原文の語順に従って訳せば「神の義は福音の中に啓示されている」となります。かつてのマルティン・ルター(1483-1546)にとっては神の義は福音どころか、裁きの宣言、自分は救われないという悪い知らせでしかありませんでした。しかし、例えば詩篇71篇を読むと詩人は何度も「あなたの義(神の義)」という言葉を繰り返し、喜びと感謝の思いで歌っています。「わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみをほめたたえるでしょう。」(詩篇71篇16節 p.809)神の義が福音の中に啓示されているとはどういうことか、ルターはそのことを日ごと神様に祈り、聖書研究を続けながら問いました。
そして、示されたのは「神の義」は、神様が義なる方、正しい方であられる、ということだけを意味しているのではなく、神がご自身の義を与えることによって罪人を義として下さり、救って下さるということでした。
ルターは、「神の義」は「恵みの御業(みわざ)」であることを発見したのです。(詩篇71篇2節の「あなたの義」(口語訳p.808)が新共同訳聖書では「恵みの御業」と意訳されている) 罪に満ちており、どんなに努力しても自分の力では義なる者、救いにふさわしい者となることができない私たちに神様がご自分の義を与えて下さり、私たちの罪を赦し、義なる者として下さる、これが「神の義」です。神の義は、主イエスの十字架と復活において実現し、私たちに分け与えられました。
主イエスの十字架によって神様は私たちの罪を赦し、帳消しにして下さいました。そして、主の復活によって、私たちをも、主イエスと共に神の子として新しい命を生きる者にして下さいました。これがキリストの福音です。この福音に神の義が啓示されているのです。
3、信仰から信仰へ
キリストの福音において啓示されているこの神の義は。信じる者にすべてに救いをもたらします。その神からの義を喜んで受け取ることが信じること、信仰です。「信仰に始まり信仰に至らせる」(17)の原文を直訳すれば「信仰から信仰へ」です。
私たちが義とされ、罪を赦されて救われる、そのことは最初から最後まで信仰において実現するのです。「初めから終わりまで信仰を通して実現される」(17 新共同訳)
17節の最後で、ハバクク書2章4節(p.1298)の「しかし義人はその信仰によって生きる」の言葉が引用されています。神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さった義、神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義人、正しい人」なのです。
パウロがここで語っている「信仰のみによって義とされる」という真理をルターが再発見したことによって宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生しました。ルターはこの福音が語られ、聞かれ、信じる人たちの集まりが教会だと言っています。
結 論)今回の箇所(特に17節)は、ルターによって始まった宗教改革に大きな影響を与えました。当時のカトリック教会が見失っていた真の福音、喜ばしい知らせを、このみ言葉からルターは聞き取ったのです。彼がこの福音に忠実に生きようとしたことによって宗教改革が始まりました。
神の義とはイエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、義として下さる神の恵みの業であり、私たちは信仰によってのみ、その救いにあずかることができます。この福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が示されています。この神の力を信じ、それに信頼することによって、私たちもパウロと共に「わたしは福音を恥としない。」とはっきりと言うことができ、福音を誇ることができるのです。