ルカによる福音書12章1~12節

「・・・あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」              (ルカ12:5,6,7)

序論)イエス様があるパリサイ人から食事の招待を受け、その席に着いておられた時、イエス様は、パリサイ人と律法学者たちに対して「あなたがたはわざわいである」と厳しく批判されました。その結果、彼らはイエス様を「ねらいはじめ」(11:53,54ました。そして敵対する者たちの敵意が高まり行くその中で、イエス様の周りに人々が色々な思いを持って群がってきました。
イエス様はまず、弟子たちに向かって語られます。

1、「偽善に注意しなさい」
 イエス様は弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。」(1)と言われました。「パン種」はイースト菌のことですが、ほんのわずか入れただけで、すごい膨張力を持っています。偽善が心に入ってくるとまるでパン種のように、音をたてないけれども大きな力を持って、その人を占領していくと言われているのです。イエス様は人々を間違った信仰へと導くパリサイ人の「偽善」に影響されないようにと注意されたのです。パリサイ人は神の務めに生きているようでありながら、その内実は神の言葉を聞いて聞かない生き方をしていました。表面は信仰者らしく取り繕っても、心の中は貪欲や悪意に満ちていたのです。
偽善というのは人に良く見せようとして本当の自分を偽ることです。なぜ偽善が起こってくるのかというと、人を恐れるからだと4節で言われています。
律法学者やパリサイ人の敵意が高まる中で、イエス様の弟子と告白するなら迫害が自分たちの身にも及ぶかもしれない危険な状況の中に弟子たちはいました。そのような弟子たちにイエス様は「恐れるな」と言われます。それは彼らに恐れの思いがあったからです。
人を恐れ、信仰を隠し、イエスの弟子ではないように振舞ってしまうのは、パリサイ人が人前で自分を取り繕おうとする偽善と同じなのだ、とイエス様は弟子たちに言われたのです。後々、イエス様が捕らえられた時、筆頭弟子のペテロはイエス様のことを3度知らないと否定してしまいます。他の弟子たちも恐れて逃げ出しました。この弱い弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。
しかしイエス様は私たちの弱さを全てご存知の上で「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが」(4)と弟子たちを、そして私たちを「友」と呼んで下さいます。
イエス様は私たちの罪を暴いてそれを裁こうとしておられる方ではなく、むしろ私たちが誰にも見せずに外側を取り繕いつつ隠し持っている罪を、私たちから取り去って、それをご自分の身に背負い、十字架にかかって死んで下さったことによってそれを赦して下さる方なのです。
そしてイエス様のご復活をもたらした神様が私たちの命を支えてくださるのです。

2、恐れを除く神への畏れ
 4節5節には、私たちが本当に恐れるべき相手は、人間ではなくて神様だということが語られています。その神様は「殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかた」(5)だと言われます。これを読むと神様とは恐ろしい方だ、死んでから地獄に投げ込まれたらどうしよう、と不安になります。
イエス様はここで私たちに、神への恐怖を植え付けようとしておられるのではなく、人間は肉体の命を奪うことはできても、死を越えて私たちを最終的に支配しておられるのは神様なのだよ。それは、死んだ後と言うよりもむしろ今生きているこの人生の日々の歩みにおいて、私たちを本当に支配し、支え、守り、導いて下さっているお方がおられるのだよ。と天の父なる神様を示そうとしておられるのです。
私たちは多くの恐れに取り囲まれています。人生には色々な苦しみや悲しみがあって、それが私たちを恐れさせます。恐れからの解放は、恐れから目を背けることによってではなくて、本当に恐れるべき方と出会うことによってこそ得られるのです。それはびくびくするというような意味の「恐れる」でなく、「畏れる」「神を神として崇める」ということです。
本当に恐れるべき方とは、私たちがこの世の人生において感じる恐れの全てを越えて支配しておられる方です。このお方に一切をお任せすることが神を畏れるということです。
6、7節はそのことを語っています。スズメや髪の毛一本に象徴されているように、神様は小さくはかないように見える私たち一人ひとりを決して忘れることなく、尊く思い、日々の歩みの隅々までをみ手の内に置いて守り導いて下さっているのです。それゆえに私たちは、人の目を恐れることなく、イエス様が私たちの中に見つめて下さっている信仰にしっかりと立たせていただきましょう。そうするならば、「人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「人の子」というのはイエス様がご自分のことを言われる言葉です。私たちがイエス様への信仰を人々の前で告白するなら、イエス様ご自身が天で、私たちのことを、「神よ、これがわたしの友です」と言ってくださる時がくるのです。どんな恐れや、困難や、途方にくれるように思える時でも、「イエスこそ私の主です。友です。」と主を信頼して生きることは、天に宝を積むことであり、永遠の価値を持っているのです。
それでも、私たちは弱い存在です。しかしイエス様はそのような欠けある私たちを知っていてくださっています。イエス様は十字架につけられながら、その十字架につける人々のために、逃げ去った者たちのため、そして私たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」と父なる神に祈られました。そのイエス・キリストの愛がどんなに深いものであるかを私たちに証しするのは、聖霊の力です。この神の愛を拒み、イエス様の差し伸べて下さっているみ手を振り払いイエスの十字架の死による赦し、そんな救いは必要ない、自分には関係ないと言ってしまうことは聖霊を冒涜することです。十字架を仰ぎ、差し出されている御手にすがって参りましょう。

結論)私たちはこの後、それぞれの生活の場へと遣わされていき、そこで、人々の前で信仰者としてどう語るかが問われます。けれども心配することはありません。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(11,12新共同訳)のです。信仰を告白する言葉は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。自分の生涯をそのまま語れば、聖霊がそれを助けてくださるのです。聖霊のお働きを信じて、心配しないで身を委ねることこそが、求められているのです。