ルカによる福音書11章45~54節

「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」 (新約聖書 ペテロの第一の手紙2章24節 p.368)

序 論)主イエスはパリサイ人に対して、三度「あなたがたは、わざわいでる。」(42、43、44)と叱責され、まず内側(心)をきよめなさい、と言われました。次にイエス様は律法学者に対して語られます。主が語られたこととなされたことは…

本 論)1、預言者を受け入れなかった人々
 主イエスは律法学者に対しても、「あなたがたは…わざわいである。」(46、47、52)と三度、叱責されました。律法学者は「これは律法違反になるかならないか」「このことについて律法はどう教えているか」を判断する役目を担っていました。モーセ律法(十戒等)以外にたくさんの掟(口伝律法)を作って「律法に従うためにはこうしなければならない」と命令し、人々の自由を奪っていました。さらに、自分たちに都合のよいように律法を解釈していたのです。彼らは律法を重荷にして人々に負わせてしまいました。主はそれを「負いきれない重荷」(46)と言われました。
また、律法学者たちは殺された預言者たちを記念しその業績を偲ぶ碑(墓)をあちこちに建てていました。そうして自分たちが昔の預言者たちを尊敬していることを示そうと しました。しかし預言者たちを記念するなら、預言者たちが語ったように神の言葉に聞き従うべきであり、今、彼らの目の前におられる預言者以上のお方、イエス様の語られる言葉に素直に耳を傾け、主を救い主として受け入れるべきでした。しかし、彼らは、そうすることができなかったのです。彼らは、預言者を迫害した人々と同じことをしていました。
49節では旧約聖書の特定の箇所の引用ではなく、旧約の歴史を通して神様が今まで、なされてきたことを「神の知恵」と表現し、イスラエルの人々が預言者や使徒たちに対してしてきたことが一文に要約して語られています。
次に主イエスは、殺された全ての預言者の血の責任が、今の時代の者たちに問われるのだと言われます(50-51節)。その殺された預言者の代表として、アベル(創世記4章1-16節 p.4)とザカリヤ(歴代志下24章17-22節 p.632 この箇所では「祭司エホヤダの子ゼカリヤ」と表記されている)が挙げられています。ここでは、アベルは最初の預言者、殉教者として扱われています。ゼカリヤは、み言葉を語ったため、それを受け入れない人々によって殺されました。旧約時代を通して神様のみ言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「この時代(の人々)」に問われると主イエスは仰ったのです。
「知識のかぎ」(52)は、聖書の意味を解き明かす鍵、神の救いの計画に関する知識を明らかにする鍵のことです。聖書と神の世界が「知恵の家」にたとえられています。(箴言9章1節 p.890) パリサイ人や律法学者たちは、自分たちが「知識のかぎ」を持っていると自負し誇っていました。しかし、真にそれを持っておられるのはイエス様です。(「神の知恵たるキリスト」(Ⅰコリント1章24節p.257) 私たちはイエス様の言動を通して、父なる神様がどのようなお方かを知るのです。

2、主ご自身が私たちの罪の責任を負われた
 パリサイ派の人々や律法学者たちこそ、かつて預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら顕わしてしまいました。イエス様に対して敵意を増大させ、昔の人々と同じことをしようとしていたのです(53-54節)。今回の箇所(46-52節)は、本来は神様の愛と祝福の現れである律法やみ言葉を、彼らが御心とは違うものへねじ曲げ重荷に変えてしまっている人々に対する主イエスの怒りが語られています。
「アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。」(50)
と主イエスは言われました。そのように語られた主イエスはどうなさったのでしょうか。主は、パリサイ人たちや律法学者たちの激しい敵意によって、捕らえられ、十字架につけられて死なれたのです。主イエスもまた、殺された預言者の一人に加えられました。しかし、イエス様を捕らえ殺した人々が、そのことの責任を問われて神様の裁きを受けたとは、福音書のどの箇所にも語られていません。
では、「この時代がその責任を問われる」というみ言葉はどうなってしまったのでしょうか。その責任は誰に問われたのでしょうか。驚くべきことに、主イエスご自身がそれを引き受けて下さったのです。神様のみ言葉を拒み、捻じ曲げ、預言者を受け入れない私たちすべての人の罪の責任を、主イエス・キリストご自身が引き受け、背負って十字架にかかって死なれました。そのことによって、私たちに罪の赦しと新しい命が与えられました。私たちは、この主イエスの十字架による罪の赦しの恵みの中で生かされています。

結 論)主イエス・キリストを信じ、従う歩みは、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。またみ言葉を守るべき掟とだけ思い込んで、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら、人間ばかりを見つめて生きるのでもありません。私たちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるのです。そのことによってこそ聖書に記されている神様のみ言葉を恵みのみ言葉として読み聞くことができます。
私たちは、神の恵みのみ言葉を、単なる倫理道徳の教えへとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても裁きの言葉、重荷へと変えてしまう傾向があります。それは私たちの内に根深く残っている間違った捉え方です。
しかし、主イエスはその誤りからも私たちを解放して下さいます。私たちは主イエスによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもってそれに応答していく信仰の生活を送っていくのです。