「愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」(ルカ11章40-41節)
序 論)イエス様があるパリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられました。その前にイエス様が身を清めることなさらなかったので、このパリサイ人は不審に思いました。主イエスは彼に向かって語られます。主が伝えようとされたことは…
本 論)1、神の愛をいただいて内側がきよめられる
イエス様はパリサイ派の信仰のあり方を厳しく批判されました。外側ばかりを懸命にきれいにするが、内側は汚れに満ちているのがあなたがたの姿だと言われたのです(39)。 「外側と内側」(40)は私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と心の中をたとえておられます。私たちの外側も内側も神様が創造されました。(創世記2章7節 p.2 参照) 土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。「外側をつくった方」(40)、創造主なる神様はそこに命を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは、私たちに内面、魂を与えて下さったということです。
詩篇103篇1節は「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。(p.838)と歌っています。土の塵で造られた人間に「内なるもの(魂)」が与えられており、その魂において神様との交わりに生きることが歌われています。私たちは外側も内側も神様によって造られた者であり、特に内側、魂において、神様との交わりに生きるべき者です。罪によって神様との交わりを失い、隣人とのよい交わりも失い、本来の喜びを失っていた、私たちのために主イエスは、この世に来て下さいました。私たちの罪を身代わりになって背負い、赦しを与えて下さるために主イエスは十字架にかかられ、復活されました。主イエスを信じる者に神様は聖霊の息吹を注いでくださいます。 (ローマ人への手紙5章5節 p.238 参照)
私たちは自分で自分の内側をきよくすることはできません。主イエスを通して、神様のご愛に触れ、聖霊によってきよめられるのです。神様の恵みをいただき、自分に与えられたものを感謝して用いていくことによって、全てのものがきよいものとなるのです。
2、光によって自分の罪を認め、悔い改めること
「あなたがたはパリサイ人は、わざわいである。」と主イエスは三度繰り返して語られています(42,43,44節)。自分の得た収穫の十分の一を神様にささげるべきことが律法に定められています。(レビ記27章30-33節 p.180 民数記18章26節 p.213 等)主イエスはこの定めをどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは決して言っておられません。
しかし、ここでイエス様は、パリサイ派の人たちが、「薄荷、芸香、あらゆる野菜の十分の一」を量って宮に収めながら「義と神に対する愛とをなおざりにしている」ことを問題にしておられます(42)。それでは、外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じになります。彼らは律法のもっとも大切な教え、神を愛し、隣人を愛するという「愛」を失っていたのです。(ルカによる福音書10章26-28節 p.104)
また会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは人々に尊敬され、一目置かれることです。神様の教えを語っている人に対してそういうことが自然に起こって来ることはあります。しかしここでは、そういうことを「好んでいる」(42)とあります。人に褒められ、尊敬され、重んじられることが結果ではなく、目的になっています。彼らは自分の誉れ、栄光を求めていたのです。それも外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じです。神様との関係における義と愛をないがしろにし、むしろ自分の誉れを求めています。
そのことが一つのたとえによって語られています(44)。律法には、死体に触れた者は汚れるという教えがあります。(民数記19章11節 p.214)それゆえにユダヤ人たちにとって、死体を葬る墓というのは汚れた場所でした。だから間違って墓の上を歩いたりして汚れを身に受けることがないように、墓には「ここは墓である」ことが分かるような目印を付けました。ところがここでは「人目につかない墓」と言われています。人目につかないのでそこに墓があるということが分からずにその上を歩いてしまって汚れた者になっている。つまり「人目につかない墓」とは、見た目には汚れていないように見えて実は人を汚すものを表すたとえです。
パリサイ派の人々は、神様に従って生きる生活を教えているように見えて、実は神様ではなく自分の誉れのために生きる人間を作り出していたのです。「内側は貪欲と邪悪とで満ちている」(39)と言われたのはそのことを指摘しておられたのです。パリサイ人たちが私利私欲に走り、神様を利用して金儲けをしていたわけではありません。しかし、彼らは自分の清さ、正しさ(義)を求めることによって、自分の栄光を追い求め、人よりも立派な者になることに誇りと喜びを見出すような生き方に陥っていたのです。私たちも自分は信仰者らしくきちんとやっているという誇りと自負が強まり、それに比べてあの人は…、という人への批判や軽蔑が生まれます。このような信仰のありかたはまさにパリサイ派の「律法主義」そのものです。そこには主イエスがおっしゃたように、外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているような、建前だけの、病んだ、屈折した喜びのない生き方しか生まれません。
そのような状態に陥っていたパリサイ人たちに対して主イエスは「わざわいだ」と言われました。これは彼らに対する厳しい叱責と批判が込められた言葉です。(英訳ではwoe や alas)それと同時に、「あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける!」という悲嘆、悲痛の意味も込められた言葉です。主イエスはパリサイ派の人たちに対しても、彼らがイエス様の言動を知り、そのご愛に触れ、自分の罪を認め、悔い改めて、ご自身を信じ、受け入れることを願っておられました。今も、主イエスは私たちに対して、罪を悔い改め、ご自身のもとに来ることを願っておられます。
結 論)主イエスを信じ、聖霊による愛を内にいただいた私たちは大胆に神様に信頼して歩むことができます。自分の誉れや評判のためではなく、心から隣人を愛し、仕えることを喜びとする者とされます。ペンテコステの日に弟子たちに降られ、教会を誕生させられた聖霊なる神様が、今、私たちにも降り、新しい命の息を吹き込んで下さっています。主イエスは私たちを、外側をきれいにしても内側は貪欲と邪悪に満ちているような生き方から解放して下さり、喜んで大胆に神様と隣人を愛して生きる者として新しく生かして下さるのです。