ルカによる福音書11章33~36節

「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ11章35-36節)

序 論)イエス様は、「天からのしるし」(16)を求めてくる群衆に対して答えられました(29-32)。主イエスはご自分がソロモン王や預言者ヨナよりもまさった者であり、ご自身がしるしであることを示されました。さらに、「あかり」、「目」、「内なる光」の三つのたとえを語れらます。主が伝えようとされたことは…

本 論)1、「世の光」なる主
ここで言われる、「あかり」(11)は、この罪(闇)の世に来て下さった、イエス様ご自身と受け取ることができます。イエス様は、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8章12節 p.151)と言われました。父なる神様は、世の人々がイエス様を信じ、受け入れることを願ってイエス様を送られました。イエス様もご自分の言動を通して、ご自分が救い主であることを明らかにされたのです。
しかし、律法学者、パリサイ人たちは、イエス様を受け入れることができませんでした。  当時は、多くの人は目から光が出て、ものが見えると考えていました。目があかりの役割を果たしていると思われていたのです。目から光が入るという考え方もありまし た。この箇所(34-36)は、これらの両方の考え方が反映されています。「目が澄んでいる」(34)と訳されている原語は「単純である(英語ではsingle eye)」という意味です。それは、一つのもの、見つめるべきものをしっかりと見ているということです。反対に「目が悪い」(34)は見るべきものがよく見えていないという意味です。
ここでの「目」は肉体の目ではなく、「霊的な目」、真理を受け入れる心を意味しています。この目は、輝いている「あかり」の光を受け止める器官です。私たちが、イエス様を救い主と信じ、心に受け入れるなら、「全身も明るい」(34)、すなわち「あかり」によって全身が照らされ、明るくなります。それは、主と共に「光の中を歩む」ことができるようになるからです(Ⅰヨハネの手紙1章7節p.376) しかし、目(心)があかりの光(イエス様)を受け止めることができないと、あかりが輝いていても、その人の世界は暗いままなのです。
ここで大切なことは、「あかり」は私たちの外に輝いていて、私たちは「目(心)」によってそれを受け止めることです。
私たちはすぐに不安や怒りや嫉妬などの暗い(闇の)思いに支配され、全身が暗い闇に覆われてしまいます。苦しみ、悲しみ、不幸の中でも自分の全身を明るく照らす光を私たちは、自分の力で持つことはできません。その本当の光は私たちの外にあります。私たちはその光を受け止める目を持たなければなりません。目が悪ければ、その光が輝いていてもそれに照らされることができないのです。

2、み言葉と内なる光
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節 p.859)とあるように、聖書の「光」は「み言葉」をも意味しています。私たちの外に輝いている光、それは主イエス・キリストが与えて下さった神様のみ言葉です。このみ言葉のみが、主イエスの十字架と復活による救いを私たちに告げています。それは、神様が独り子イエス・キリストの命をすら与えて私たちを罪の支配から解放して下さり、神の子として新しく生かして下さるという恵みです。この恵みのみ言葉を聞き、しっかりと受け止め、それに聞き従うことによってこそ、私たちはキリストによる恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。しかし、そのそのみ言葉を受け止めて聞き従うことをせず 当時の群衆のようにしるしや証拠だけを求めていったり、パリサイ人たちのように自分の薄っぺらい知識や、限られた範囲でしか通用しない人間の常識によって主イエスを試そうとするならば、キリストによる恵みの光に照らされることはできません。
南の国の女王やニネベの人々は、澄んだ目で神様のみ言葉の光を受け止め、それに従っていった人々でした。それに対してしるしを求めていた当時の人々は目が悪くて光を しっかりと受け止めることはできませんでした。(29-32)
「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」(35)  これは自分の中にもともと持っている光が消えてしまわないように気をつけなさい、ということではなく、目が悪くなることによって私たちの外に輝やいている神様のみ言葉の光を受け止めることができなくなり、その結果私たちの内にある光が消えてしまわないように注意しなさいという意味です。そして、いつも澄んだ目でまっすぐにみ言葉の光を見つめ、それに照らされて歩みなさいと言われています。
私たちが自分の内に光を持つことができるのは、自分を磨き、人格を高めて、自分の内から光を放つことによってではありません。それは、目(心)をまっすぐにみ言葉の光 へと向けることによって、「神の言を聞いてそれを守る」(28)ことによってです。そして、私たちの内に神の御子イエス様を受け入れることによって、私たちは神様の聖なる霊の住まい、聖霊の宮となるのです。

結 論)私たちの目がみ言葉の光をしっかりと見つめているなら「ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなる」(36)のです。み言葉の光に照らされるとき、私たちは自分が光の中を生きることができるだけでなく、周囲をもその輝きで照らすことができるのです。
「あかり」は「はいって来る人たちに、そのあかりが見えるように燭台の上に」(33)置かれます。私たちが輝かす光は、「入って来る人たち」に道を示し、その足元を照らすのです。それは、主イエス・キリストを救い主と信じ、その救いにあずかる者の群れである教会に新たに招かれて来る人、キリストの救いの中へと導かれて来る人です。
み言葉を求め、み言葉の光に照らされ、キリストとの交わりを持ち共に生きる人は、まことの光へと世の人々を招くあかりとなるのです。