わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いてわたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください。詩篇61篇2節
序 論)この詩篇は、イスラエルの王ダビデが歌った詩です。このとき、ダビデは息子アブサロムの反逆にあい、エルサレムの王宮から80キロも北東にあるマハナイムにまで逃亡していました。(サムエル記下17章 参照p.459)
ダビデの祈りは…
本 論)1、神を求める祈り
アブサロムに命を狙われたダビデは、民と共に泣きながら逃げていきました(サムエル記下15章30節 p.455)。そしてそのような中でも神様に祈りました(31節)。
そして、エルサレムから遠く離れた地でも、苦悩の中で神様に叫び求めました。神の都エルサレム、神様の臨在の象徴である幕屋から離れて生きることはどれほどつらいことだったでしょうか。「地のはて」(2)は、詩人の心の状態を表しています。心身ともに疲労して、神が遠くにおられるように感じました。そのような状況の中でも彼は、神に呼ばわりました。詩人はそこから神の力によって「及びがたいほどの」救いの高嶺に登ることを願っています。 「高い岩」(2)は、神の力と真実と不変性を表しています。そして、「岩」を新約の光に照らして見れば、「この岩はキリストにほかならない」(Ⅰコリント10章4節 p.799)のです。私たちは神様に導かれ、キリストによって驚くほどの恵みが与えられています。私たちは、イエス・キリストの血によって、罪赦され、きよめられた者です。そして、キリストの愛と平安を内にいただています。そのことを覚えて、父なる神様に祈り求めてまいりましょう。
ダビデは、地の果てと思えるような場所でも、神様は、自分の避け所、やぐら、幕屋、御翼であると歌います。これらは、神様が共におられることを表す言葉です。ダビデは、自分がどんなに離れていたとしても、この神様こそが私を守って下さるお方であり、このお方のもとに逃げ込むことこそが自分の最も求めることだと祈るのです。
2、確信、感謝、喜びの祈り
「わたしに与えられました」(5)これは救いと回復の確信の表現です。新共同訳聖書では、「必ず…お与えになります。」と訳されています。この後、アブサロムの謀反は失敗に終わり、ダビデと彼に従ってきた忠実な部下たちは「嗣業(受け継ぐべき地)」エルサレムに帰ることができました。5節の「王」は自分のことを遠回しに言っています。ダビデが王としての自覚に基づいて、その務めを十分に果たすことができるようにと祈っています。ダビデは自分自身のことと共に、彼の後継者に対する神様の祝福も願い祈っています。いつくしみ(恵み)とまことが彼を守るのです8節はダビデの感謝と誓いが歌われています。地上の王は天におられる王(神)に対して誓いを果たそうとしています。
結論)ダビデは、やがて来られる救い主イエス・キリストを予表する(予型となる)人でした。 十字架と復活によって、私たちを罪から救い、神の右の座におられるイエス様は、私たちにとって「永遠の王」となられました。イエス様は「恵みとまこと」に満ちておられるお方です。(ヨハネ1章14節 p.135)
「地の果て」と思えるところにいたダビデにも豊かな救いが与えられました。私たちにもさらに豊かな救いがキリストによって与えられています。そのことを覚え、日々、喜びと感謝をもって主に仕えさせていただきましょう。
(交読詩篇 90篇について) (讃美歌21 p.100)
3-6節は、人の命のはかなさとすべては神の御支配の
もとにあることを詠っています。
私たちは、神様の前に罪ある者であり、怒りの対象でした。(7-9節) しかし、イエス様は、十字架の上で私たちの罪のさばきを身代わりに受けて下さいました。私たちはキリストと共に新たに生かされたのです。
(エペソ2章1-6節 p.302)
イエス様を信じ、共に歩むとき、主の祝福と喜びが私たちの上にあるのです(16-17節)。