そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。…」 ルカ10章21節
序 論)主イエスのみもとで訓練を受けた弟子たち72人が町々に伝道に遣わされました。その後、弟子たちがイエス様のもとに帰って来ました。イエス様が喜ばれることは…
本 論)1 私たちの名が天に記されていること
弟子たちは、悪霊さえも服従させるという素晴らしい経験をして帰って来ました(17)。「あなたの名によってなしますと」と言っているのは大切なことです。彼らの働きはすべて、主イエス・キリストのお名前によってなされました。主イエスのことを宣べ伝える中でこそ、病気をいやし、悪霊を服従させることができたのです。主イエスのみわざ が自分たちを通して、そのみわざのために用いられるという素晴らしい体験を彼らは与えられました。72人は、エルサレムへと向かうイエス様の先駆けとして遣わされました。このとき、主イエスが十字架で死なれ、復活して天に昇られる時が近づいていました。
主イエスが昇天され、神の右の座に着かれるとき、私たちを支配していたサタンが力を失って天から落ちるのです。イエス様にはその様子を前もって見られたのです(18)。神様の恵みの力がサタンに勝利しました。その恵みとは、独り子主イエスの十字架と復活とによって、神様が私たちの罪を赦して下さったという恵みです。その恵みによって、もはやサタンがどれだけ私たちのあら探しをし、罪を言い立てても、神様は私たちを赦し、義として下さっています。神様が義であると宣言なさった者を、サタンは断罪することはできません。サタンが稲妻のように天から落ちるのは、神様の恵みによる罪の赦しが実現したことを示しています。「へびやさそり」は、危険な敵、心の内なる悪の思い、様々な誘惑、罪の力の象徴と解することができます(19)。それらに打ち勝つ力も主によって与えられます。しかし、イエス様は悪霊が服従することが本当に喜ぶべきことではないと言われます。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです(20)。神様が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっています。神様のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはありません。地上の人生においてどのようなことがあっても、神様は「この人の名は、私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。(「あの書」ダニエル書12章1節 p.1243「いのちの書」ピリピ4章3節 p.312 黙示録20章15節 p.407 参照)
私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神様が私の罪を赦して下さり、私の名が天に記されていることを信じることです。そこにこそ、私たちに与えられる本当の喜びがあります。主の十字架によって私は罪赦され、主のものとされている、この喜びが与えられるとき、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害をおよぼ す者はまったく無いであろう。」(19)と言われる約束が真実であることを知ることができるのです。
2.主を信じ、救われること
イエス様は聖霊による喜びにあふれて父なる神様を賛美されました(21-22)。「これらの事」(21)とは、イエス様が神の御子、救い主であること、主が十字架にかかり復活されること、主イエスを信じた者たちの名が天に記されていること、です。そのことが知恵ある者や賢い者には隠され、幼な子のような者に示されました。つまり、自分の力に依り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、イエス様が救い主であること、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。
「幼な子」は、自分の無力、自分が罪ある者であることを知っている者のことです。そのような者にこそ、神様は、イエス様が救い主であることを示して下さり、主を信じ、救われて「あなたがたの名が天にしるされている」恵みを与えて下さいます。
父なる神様と御子イエス様が一つであり、イエス様に私たちの救いに関する全てのことは任せられています。(22節) (「わたしと父は一つである」ヨハネ10章30節 p.157 「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」ヨハネ5章22節p.142 参照)
「あなたがたが見ていること」(23)、それは、父なる神様が地上に送って下さった、御子、救い主イエス様ご自身の御姿とそのなされているみわざです。「預言者たちと王たち」(24)は、旧約聖書のイザヤやエレミヤやアモス等の預言者たちです。王は、ダビデ、ソロモン、ヒゼキヤのような人たちです。この時の弟子たちだけでなく、私たちキリスト者は、聖書を通して彼らが見たいと願いながら見ることができなかったことを見、聞きたいと願いながら聞くことのできなかった言葉を聞くことができるのです。
結論)主イエスが十字架の死と復活を経て昇天されたことによって、サタンは既に天から落とされました。神様が私たちの罪を赦し、私たちの名が天に記されている。これらのことを信仰の目で見、この恵みのみ言葉を聞く幸いを私たちは与えられています。この恵みの事実を見、この恵みの言葉を聞くことができるのは、知恵ある者でも賢い者でもありません。私たちは狼の群れの中に送り込まれた小羊のように、あるいは幼な子のように無力な者です。しかし、自分の力ではどうすることもできない現実の中で、主イエスを信じ、主によって遣わされていることを信じ、主に従って歩もうとするときに、主イエスご自身が私たちの霊の目と耳を開いて下さいます。そして神様とイエス様のことをまだ知らない多くの人たちが見ることも聞くこともできないでいる喜びを先駆けて与えて下さっているのです。
この喜びをもっと多くの人たちが知ることができるように祈り、日々の生活の中で証ししてまいりましょう。